5 心が揺れる女 【5-2】

【5-2】

初めて来る場所、調味料などどこにあるのかもわからない。

インスタントで、とにかく煮込みさえすれば大丈夫だというものを買ってきて正解。

ネギを切り、タマゴを落として簡単な食事を用意する。

少しでも食べ物を口に入れないと、薬だけでは治らないだろう。


「ねぇ……」


振り返ると、謙はベッドで眠っていた。

額にはそれなりに汗が光り、時々口を開き、少し大きく息を吐く。

これだけ辛そうな謙を見るのは、初めてかもしれない。

いつも精一杯仕事をして、ギリギリまで迷ったり困ったりすることなどない人。

火を止めて、私はゆっくりと謙のそばに向かう。


人を愛することがとても素敵なことだということも、

人を愛することがとても辛いということも、私はこの人に教えてもらった。

幸せでいるときも涙が出ることや、痛みの中に悦びがあることも、

全て教えてくれたのは彼だった。


「……寝てしまったの?」


せっかく作ったのにと思いながら、しばらく寝顔を見続ける。

無理に起こすことはしたくないと思い、汗ばんだおでこを、そっとハンカチで押さえた。


「あ……」


謙の手が、私の腕を掴む。

閉じていたと思っていた目が、ゆっくりと開いた。


「逃げないのか……」


謙の目は、まっすぐに私を見る。

将来を誓った妻がいながら、どうしてそんな目を向けられるのか、

理解をすることが苦しい。


「今のあなたなら、いつでも逃げられる気がするから……」


謙は、そんな私の意見に軽く口元だけをゆるめ、

せっかく作ってもらったのだからと、体を起こす。

私が、まだ熱の残る体を支えようと腕を動かすと、謙は私の耳元に手を滑らせ、

首筋にキスをした。


「逃げられるって、言わなかったか?」

「うん……」

「どうして逃げない」


どこまでも、限りなく深く、そして優しい声。

どうしてこの人は、あのとき、私を選んでくれなかったのだろう。


「病人に手荒なマネをしたくなかっただけ」


私はそういうと、謙から手を離し、食事をテーブルの上に準備することにした。

このまま、彼の体を支えていたらきっと、

謙はまた、心の距離を計ろうとしただろう。

今は首筋だったけれど、次は……



その時、私は逃げていく気持ちになれるかどうか、自信がなかったから。



あなたに、心の距離を、見抜かれたくなかったから。


「無理して食べないでね」


私は洗濯機の場所へ行き、洗濯物を取り出すと、何事もなかったのだと言い聞かせ、

謙と距離を開けた。





気付くと、時計は10時を回っていた。

薬が効いてきたのか、謙は食事を少し取ってから、ずっと眠っている。

カーテンの隙間から外を見ると、雨が激しく降り始めていた。

音を立てないようにバッグを取り、玄関へ向かう。

このまま眠ってくれていれば、きっと体は楽になるだろう。

ドアノブをゆっくりと回し外へ出ると、私は近くのコンビニへ走り、

ビニールの傘を買った。



駅に到着し、電車を待つ間、浮かんでくるのは、謙のぬくもりだけだった。

荷物を届けるだけ、そのはずだったのに、結局、昔のように世話をしていた。



首筋に受けたキス。



あの時、謙が何も言わず、キスを重ねてきたらきっと、

私は受け入れていただろう。

抑えきれない気持ちを唇に乗せ、どこに向かうのかわからない彼の思いを、

昔のように受け続けていたはず。


終わっているとはいえ、彼には奥さんがいる。

世の中の常識からすれば、ありえない関係。

母がいることを知っているのに、平気で父を自分のものにしている、

あの女と同じになる。



私は違う。



病気になり、弱い部分を見せられてしまい、気持ちが乱れたのだと自分に言い聞かせ、

いつもの駅で降りる。

傘を差し、部屋まで戻った後、謙の部屋にハンカチを忘れてきたことに気がついた。

汗を拭こうとして、腕をつかまれた後、動揺してそこに残してしまった。


「はぁ……」


窓から外を見ると、雨はさらに激しさを増した。

明日は『竹原川花火大会』が予定されているのに、

準備のことも考えたら、午後まで振り続いたら中止になるかもしれない。

動きを止めると、謙との時間を思い出してしまうので、

私はティッシュを何枚も引き出し、『てるてる坊主』を作り続けた。





次の日、起きると空は晴れていた。

携帯を見ると、謙からのメールが入っている。



『昨日はありがとう。おかげで体が楽になった』



私はその文面を読み、すぐに返信を入れる。



『来週は忙しいですから、しっかり治して下さい』



これで終わり。

ちょっと揺れただけの時間は、忘れてしまおう。

私は金曜日から交わし続けた謙とのメールを、全て『消去』した。



【5-3】

動き出す恋模様。雨は心を濡らし、花火は心を照らす。
歌穂の『心』は……ゆっくりと歩き出しているようで……
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