幸せの足音

【幸せの足音】

       幸せの足音



咲のお腹に、神様のプレゼントが舞い降りてから、6ヶ月が過ぎた。亮介は相変わらず

仙台支店の部長を勤め、日々忙しく動いている。


「今日は遅いの?」

「うーん……4店会議があるからな。秋田の多田さん、語り始めると長いんだ。
途中で鐘を鳴らしてやりたいくらい」


亮介はネクタイの結び目を作りながらそう言うと、整えた姿を鏡で軽く確認した。

咲はアイロンをかけたハンカチを、亮介に手渡す。


「多田さんって、もしかしてこんな巨漢の?」

「あぁ、そう。年中臨月のような……」


亮介は両手を大きく広げ、咲に多田の風貌を表現する。咲はそれを見ながら楽しそうに笑い、

肩にポンと触れた。



「あ……」

「ん?」


咲は嬉しそうにお腹に手をあて、亮介も遅れて咲のお腹に優しく触れる。


「動いたの?」

「うん、きっと楽しかったのよ、赤ちゃんも」

「そうか……」


近づいてくる幸せを感じながら、亮介は咲のあごを軽くあげ、いつもの挨拶をする。


「今のキスも伝わるかな」

「……かもね」


鳥のさえずりが聞こえ朝日がまぶしく窓に映る、深見家の平凡な朝が、久しぶりに戻ってきた。





今から3ヶ月ほど前のこと、咲は突然襲ってきたつわりに悩まされることになった。

きっかけは朝のコーヒーで、香りがし始めると同時に洗面所に走り、なんとなく違う物音に、

ベッドから起き上がった亮介は、苦しそうな咲のしゃがみ込んだ姿を見つけ、すぐに駆け寄る。


「咲……」

「亮介さん、ごめんなさい。コーヒー……」

「コーヒー?」

「……たぶん、つわりだと思うの」


亮介はそれを聞くと、リビングで美味しそうな匂いを漂わせているコーヒーを流しに捨てた。

おそらくこのたちこめる香りが原因だろうと、窓を開け始める。


「咲、まだダメ?」

「……だいじょうぶ……ごめんなさい」

「いいよ、謝ったりするな」


亮介は咲を寝室へ戻し、自分が起き上がったベッドの布団を直し始める。


「少し寝ていろよ。朝の支度くらい俺一人で出来るから」

「……うん」


咲はそう言われて横になり、軽く目を閉じたが、すぐに聞こえてきたリビングの音に、

立ち上がり様子をのぞく。フライパンを取ろうとした亮介が手を滑らせ、床に鍋が散乱する。


「ごめん……、一人暮らし長かったんだけどな」


年々不器用になる亮介の姿を見ると、自分が必要とされていることを強く感じ、咲は笑顔を見せた。





仕事を終え、車を走らせ家に戻ると、そこには今朝の様子とは全く違った、いつもの咲がいた。

駆け上がり乱されている呼吸を、玄関先で整える。


「咲、大丈夫なのか?」

「あ、おかえり。ご飯出来てる」


テーブルの上にはすでにおかずが並び始め、咲は味噌汁が入っている小さな鍋を火にかける。


「着替えてきてね」

「うん……なぁ、つわりは?」

「それがね、朝だけだったの。今は何をしていても全然平気」

「そう……」


亮介は靴を脱ぎ、着替え始めた。トントンと響く包丁のリズムが、妙に嬉しくなる。


「なぁ……咲!」

「何?」

「ここ、ボタン取れそうだ」

「あ……」


朝だけなら、コーヒーだけなら……。二人の中には、それくらいの感覚しか出来ていなかった。

しかし、それから少しずつ咲の症状は重くなり、2週間経った頃には、

ほとんど食べ物を口に出来なくなる。


「はぁ……」

「ダメか?」

「ごめんね、頼んだものを買ってきてくれたのに……ほとんど食べられなくて」


咲は申し訳なさそうにうつむき、ため息をつく。その頬は少し痩せ、顔色も悪く見えた。

寝室のベッドに潜り込み、咲は小さく身体を丸める。


「なぁ、気分がいい時にでも長野に帰るか? 」

「……どうして?」

「長野ならお義母さんがいるし、咲の好きなものを作ってもらえる。
俺じゃ、何かしてやりたくても、買ってやることくらいしか出来ないし……」

「迷惑?」

「そうじゃなくて……」

「だったらいや!」


強く意見を拒否した咲は、布団を頭にまでかぶり、さらに体を小さくする。

どんなことからも逃げずに向かっていく咲の性格とはいえ、見ているだけの亮介は辛く、

布団に押し込めた手を自分の方へ引き寄せ、そっと握る。


「こうしてやっていれば辛さも半分になるならな……」


自分の苦しむ姿を見ている亮介が、もっと苦しいのだと思い、咲は握りあった手を

おでこのそばに持って行く。


「ごめんね、もう少しだけ……ここで頑張らせて……」


亮介は答えの代わりに、残された右手をその上に添えた。





しかし結局、咲の症状はよくならないまま、医師から入院を薦められることになった。

どうしても家に残りたいと言い続ける咲に、これ以上は無理だと亮介は強く出る。


「だって、病気じゃないんだもの。もう少し頑張ればきっとよくなるし、あと少し……」

「だめだ、先生がそうしろって言ってるんだぞ。もし無理して何かがあったらどうする。
悲しむのは俺たちだけじゃない」


亮介のその言葉に、咲はリビングの隅にあるダンボールを見た。

長野の母が、食欲のない咲を心配し、送ってくれた品物が入っている。


「長野のお義母さんも、うちの両親も、喜んでくれた秋山たちも、楽しみにしてくれている。
意地張って入院しなくて済めば、それでいいってことじゃないだろう」


亮介は医者から渡された書類を記入しながら、もう一度咲の方を向く。


「今、この小さな命を守れるのは、君だけだ……わかるだろ、咲」


亮介の真剣な言葉に、咲は黙ったまま、状況を受け入れることしか出来なかった。





入院手続きを済ませ、部屋へ向かうと、窓際のベッドでは先に入院している女性が

本を読んでいた。亮介は荷物を下ろすと、すぐに挨拶をする。


「深見です。今日からお世話になります。よろしくお願いします」

「あ……岸本です。こちらこそよろしく」


咲はその後ろで小さく頭を下げ、ベッドに横になる。荷物の中から小さな置き時計を取りだし、

隣にいる亮介に声をかけた。


「亮介さん、時間。もういいから、早く行って」

「ん?」


咲の持つ時計を見ると、時刻は12時を過ぎていた。咲は、自分の入院が少しでも

亮介の負担にならないように、時間ばかりを気にする。


「邪魔だってこと?」


亮介は咲の気持ちを知りながら、わざとそう言った。


結局、担当医や看護師達に頭を下げ、亮介が病院を出たのは午後1時を回った頃で、

その日は、気分も優れなかったこともあり、咲はベッドに横になりじっとしていて、

隣の有華に背を向けたまま過ぎた。





次の日、看護師の巡回が終わった後、咲は隣の有華に声をかけられる。


「深見さん……って、つわりで来たの?」

「あ……はい」


病気でもないのに入院すること自体、どこか気恥ずかしく咲はそっけない返事を返す。


「あ!」


大きな声に、咲が姿勢を変え横を向くと、有華は、両手でかぎ針をうまく使いながら、

赤ちゃん用の小さな靴下を編んでいた。


「あぁ、よかった。数を間違えたかと思った」


有華は咲の視線を感じ、顔を向け照れくさそうに笑う。


「ごめんね、大きな声出して。主人によく言われるのよ、お前は天然の拡声器かって……。
ねぇ、入院って初めてなんでしょ。私なんて3度目よ、3度目」

「つわりなんですか?」


自分と比べ食欲もある有華を不思議に思った咲は、そう問いかけた。


「ううん、私は違うの。安静にしてしばっておかないと、早く出て来ちゃいそうになる」


有華はそう言うと、かぎ針を膝に置き、両手で袋を縛るような仕草を見せた。

咲は本で読んだことを思いだし、納得するように何度か頷き返す。


「それでもね、上の二人はちゃんと生まれて、元気に育っているから大丈夫よ。
この何日かは、神様がくれた休息だと思って、ありがたくもらっちゃう方がいいんだから」

「もらう?」

「うん。産まれちゃったら、本当に大変。雑誌を見ながらお茶を飲んで、
ドラマ見て泣く時間もないくらい……」


そういうとまた視線を下に落とし、黄色い毛糸を指にからめ、有華は楽しそうに靴下を作り続ける。


「上のお子さんは、おいくつなんですか?」

「一番上は小学校2年生で、下は5歳」

「ご主人が一人で?」


有華は咲の問いかけに、かぎ針を動かしながら少し笑い、首を横に振る。


「一人じゃ面倒見られないわよ。隣におばあちゃんがいるから来てもらってる。
今回もまた入院だって言ったら、あらあら……なんて言いながらも、家族の食事、洗濯って
しっかりやってくれてるわ」


横になったままでは失礼だと思い、咲は体を起こし、有華の方を向く。


「みんなね、新しい家族を待ってくれてるの。今は大変だけど、このあと素敵なことが
起こるってわかってるから……。そりゃね、私も子供達のそばにいてあげたいけど、でも我慢。
深見さんも素敵なご主人だから、離れたくないだろうけど、ちょっとだけ我慢してあげて。
今は赤ちゃんのために……」

「エ……」


有華は咲のびっくりした顔を見て、声を出して笑い、そんな有華の明るい声に、

咲も少しだけ勇気づけられた。





それから……。



「あ、そうそうそれでいいの。起用なのね、深見さん」

「起用だなんて、言われたことない。これであっているならいいけど……」


咲は気分のいい日には有華とかぎ針を持ち、教わりながら靴下を作り始めた。

今までは、つわりのことばかり考えていて、心の余裕がなかったが、

別のことを考えるようになると、気分が変わるのか、少し楽になっていく気がする。





「でね……あとここを5段作るの、それから編み方を変えて、最後は糸の処理」

「ふーん」


亮介は仕事が遅くならない時に、出来るだけ病院に立ち寄った。

入院する時は下を向いてばかりだった咲が、少しずつ前向きに変わっていることに気づき、

笑みを浮かべる。


「何かおかしい?」

「いや、ずるいなと思って」

「ずるい? どうして?」


思いがけない亮介の言葉に、咲の不満そうな顔がちらりとのぞく。


「咲はどんどん母親になってるなと思ってさ。大変そうだけど、楽しそうだ。
俺はなんの準備も出来ないし、普段と変わらず仕事して……」

「やだ、それって焼きもち?」


咲が嬉しそうに笑うのを見た亮介は、その笑顔に緊張していた気持ちがほぐされる。


「そんな楽しそうに笑うのは、久しぶりだね……」


つわりになり苦しむ咲を側で見ていた亮介は、何もしてやれないことをずっと気にし続け、

心から笑える余裕のなかった咲を、ただじっと見ていたのだと、

今のセリフであらためて気づく。向けられた視線の温かさに、咲の目頭がじわりと熱くなった。


「……ごめんね」


強がったりせずに、もっと早く助けてもらえば良かったと、咲は申し訳なく思い下を向く。


「あんまり下ばかり向くなよ。ネガティブな子供になるぞ」

「エ……本当?」


咲は驚き、すぐに上を向き、亮介は冗談だと笑いながら、咲の手を優しく握る。

昔から不安な時、寂しい時、必ず握ってきた咲の温かい手。


「あ……声がする」

「ん?」

「岸本さんちのお子さんが、お母さんに会いに来てるのよ、談話室に。
ほら、こっちに向かってくる音がする」


子供の笑い声と、パタパタと小刻みに聞こえる足音が、少しずつ二人に近づいてくる。


「なんだよ、キスも出来ないな……」

「シーッ!」


くまのぬいぐるみを持った小さな女の子が先に顔を見せたが、咲と亮介に気づき、

照れくさそうに廊下へ出てしまう。すると代わりに長女が顔を出し、ちょこんと頭を下げた。


「あ……やだ、ごめんなさい。邪魔じゃないのよ、私たち」


すぐ後に続いた有華は、亮介が来ていることに気づき、笑いながらそう言った。


「変なこと言わないで下さい、岸本さん」


有華は舌を軽く出し亮介に頭を下げると、自分のベッドに向かい、子供達が描いてきた絵を

壁に貼りだした。


「ねぇ、見てくれる? 家族の絵なんだって。おじいちゃんとおばあちゃんにお父さん、
お母さん、それとお姉ちゃんと自分と……ほら」


有華に言われ、亮介と咲がその絵を見ると、たしかに人らしき形が並び、

最後に小さな水色の丸の固まりがある。


「これが、我が家の新入りらしいよ」

「新入り?」

「弟だって、決めてるんだから……。全くもう、母の痛みも知らないで」


有華はそう言うと、二人の娘を両腕に抱きしめ、おでこや頬にキスをする。

嫌がりながらも嬉しそうな二人に、咲と亮介も優しい気持ちになった。





「お世話になりました」

「頑張ってね!」


咲は2週間後に無事退院することになった。もう少し入院の続く有華に、挨拶をする。


「産まれたら必ず連絡下さいね、待ってますから」

「もちろん」


最悪な状態で入院した咲を、励ましてくれたのが有華だった。母になる喜びや楽しさを、

教えてくれた。そんな感謝の気持ちを、咲は差し出した手で伝えようとする。


「深見さんが退院するのは寂しいな……。ご主人に会えなくなる」


有華のそんなセリフに、咲は握っていた手を外し、軽く手のひらを叩く。


「あはは……ウソよ、ウソ。うちのパパは日本一だから」


有華はそう言いながら笑うと、子供の書いた絵を指で差す。


「あ……それは残念ですね。うちの子供が生まれたら、亮介さんが日本一になりますから」

「うわぁ……言ってくれる」


咲と有華は、互いに顔を見合わせしばらく笑い続けた。





つわりのおさまった咲の妊婦生活は順調に進み、7ヶ月目の検診が近づいた頃、

有華からの連絡が届く。産まれた赤ちゃんは、有華と同じ大きな声の男の子だった。


「へぇ……男の子、じゃぁ、あの妹さんの描いた通りになったってことか」

「うん……ねぇ私、明日病院に行ってくる。幸せのおすそわけをしてもらいに……」

「わかった、行っておいで。でも、岸本さん、もう元気に動いてそうだな」

「……でしょ? 私もそう思う」


咲はお茶を入れ、有華が慌ただしく動いている姿を想像しながら、亮介の前に置く。


「あ、そうそう。うちの赤ちゃんはどうですかって、妹さんに聞いてみたら?」

「エ……」

「深見家の新入りはどっちですかって……どう?」


亮介はそう言うと笑いながら、咲の入れてくれたお茶に口をつける。


「聞かないって決めたのは亮介さんでしょ。先生に聞けば教えてくれると思うけど、聞いてみる?」


亮介は湯飲みを置き、考えるような顔をしたが、何かをかき消すように、首を振る。


「いや……いい、待つ、待つことにした。ここまで我慢してるんだ、聞いちゃダメだ」

「もう……どっちなのよ!」


平凡な1日を終えた食卓に、亮介と咲の笑い声が響き、二人のたからものがまた1歩、

幸せの足音をさせながら、近づいてきた。





これ、やっぱり生まれるまで書いた方がいいよね……

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コメント

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ご意見、いただきました!

拍手コメントさん、こんばんは!

産まれるまで、書いた方がいいですか?
そのお言葉、しっかりと受け取らせていただきます。
いつ……とは、言えませんけど(笑)

ありがとうです

tomobeaさん、こんばんは!


>是非連載にして下さい。

これって、この二人を連載にしてくださいってことでしょうか。
それはね……うふふ……です。
もうちょっと待っていてください。

実は

拍手コメントさん、こんばんは

>あれっ、この作品って、これでおしまいですか…?

実は、この『幸せの足音』は2作品あります。
拍手コメントさんが読んでくれたのは、『リミット』という創作の主人公二人が結婚し、
子供を待っている間のお話しになっている短編です。

そして、もう一つの『幸せの足音』は、
同じく『サイダー』という創作の主人公二人が同じように結婚し、
子供を待っているお話になってしまして、シーンもほとんど同じものとなっています。

……が、元々『リミット』の二人と『サイダー』の二人はキャラクターが違うので、
同じシーンでも会話のやりとりが変わってくるのがおもしろく、両方掲載したというものになっています。


つわり、私は全くなかったんですよ。
なのでその辛さはありませんでしたが、産むときはさすがに大変でしたね。
『もう嫌だ!』となるのに、不思議とまた頑張れたものです。
今じゃ反抗期真っ最中で、かわいくもなんともありませんが(笑)