3 汚れた手 【3-6】

【3-6】

それにしても、少し季節が遅かった。

まぁ、それは仕方がないことだけれど。


「3月の終わりから、4月にかけては、ここが両サイド桜の木です。
見事に花のアーチをくぐれますよ」

「へぇ……知りませんでした」


ナビを見ながら走ると、視線はどうしても下に向いてしまう。

景色を楽しみながら走るのが、本当のドライブ。


「よかった」

「よかった?」

「はい。私が一人で来たとしたら、この道は通らなかったですし、
桜の話も聞けませんでした。後藤さんを乗せてあげることにしたおかげで、
いい情報をいただきました」

「すみません、終わってしまった情報で」


『桜』の情報を4月の終わりに聞いても、あまり意味がない。


「そんなことありませんよ。これから1年間、ずっとわくわくするでしょ。
来るべき日を待つのは、一番楽しいもの」



『来るべき日』



「人って、楽しいことがあるのがわかっていて、それを待っているときが、
一番充実している気がします。そう思いませんか?」


『ポジティブ』な考え方。

初めて会ったときから、椎名さんにはそういうイメージを持った。

雑種であることを気にせずに、『パール』をかわいいと思えたことを喜んでくれた。

彼女は、挫折や失望などとぶち当たったことがないのだろうか。


「この辺で、バーベキューとか出来そうですね」

「出来そうなんですけど、出来ないんですよ」

「ダメですか」

「はい。貴重な植物などもあるそうで、禁止地域になっています」

「あら……」


無理をさせないから、綺麗な自然が残っている。

人間が好き勝手なことをすれば、あっという間になくなるだろう。

自然はものすごく強いものだけれど、ものすごく弱い部分もある。


「それは残念ですけれど、仕方がないですね」

「はい」

「バーベキューなら他でも出来るけれど、彼らにはこの場所が必要なのだから」

「彼ら?」

「はい……植物には、足もないから動けないし」


『彼ら』とは植物のことだった。

それにしても足がないとは……


「後藤さん、笑ってますね」

「……わかりましたか」

「わかりますよ。だって、ミラーに映ってますから」


発言を笑われたことが悔しいのか、椎名さんは僕にわかるように表情を変える。

彼女にとっては、真面目な意見だったのだと気付き、

僕は崩れそうになる顔を横に向け、彼女から見えないようにした。





「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

「それにしても、あのお腹を出していた子犬が、鳴くのかね」

「はい」


工場に戻ると、奥さんが紅茶を入れてくれた。

二人の会話を聞きながら、僕は作業服に戻る。


「あ、歩。パンフレット渡してくれた?」

「はい。ちょうど伯父に会えたので、直接渡せました」

「哲治さんに? まぁ、それは、それは」

「秘書の延岡さんが検討はしてくださると約束だけ」


軍手をはめようとして、手の甲の傷をもう一度見る。

動かしてみるが特に出血がないので、そのまま軍手をつけた。


「あ!」


椎名さんは、何を思いついたのか僕の方へ向かってくる。


「何ですか」

「それ、軍手。もう予備はないですか?」

「予備?」

「はい。だって、『パール』はその軍手をした後藤さんに抱っこされていたから。
きっと、感触とか懐かしいのではないかと」

「これ……ですか」


油の匂いもするし、とても人に渡せるようなものじゃない。

ロッカーにいくつか洗ったものは入っていた気がするけれど、

それにしたって、真っ白の状態ではなくて、汚れているし、ほつれているものもある。


「確かに、歩の匂いはするかもね」

「いや……でも……」

「ダメですか?」

「こんな汚いもの……」


おそらく彼女の家は、こんなものを持ち込むところではないだろう。


「汚いだなんて、失礼です」

「は?」

「あなたの手を、ケガから精一杯守ってくれているものでしょ?
汚いだなんて……」


確かに、守ってくれていることには違いはないけれど。


「いやぁ……お嬢さん、それはやめておきな」

「ダメですか」

「洗ってもね、油が抜けないんだよ。作業をするにはよかったとしても、
あなたの家に持って帰って、犬がくわえたりしたら、いいとは思えない」


話を聞いていた社長が顔を出し、軍手を持ち出す話を止めてくれた。

確かに、作業が終わった後、奥さんが全て洗ってくれているけれど、

完全にまっさらの状態にはならないものだ。


「ボールで大丈夫だよ。それに、これだけ犬のことを思ってくれているとわかれば、
あなたの匂いや家の状態に、慣れていくものだ」

「……はい」

「犬って言うのは、誰が自分をかわいがってくれているのか、ちゃんと見抜いている。
だから、自信を持って飼いなさい」


自分を認め、愛情を注いでくれている人を認める。

僕はその通りだと頷いた。椎名さんもその意見に納得したようで、

軍手の話はそこで終わった。



【4-1】

一度だと思っていた偶然が、ふと気づくと重なっていた。
僕の手に刻まれた時間と、そして……
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