12 彼女の意地 【12-4】

【12-4】

まぁ、いつもテーブルには、

つまみ食い用のお菓子が用意されているような職場なのだから、

彼女もある程度は覚悟しているだろうけれど。

そして、今日も僕がホームページを見ている時間に、

椎名さんは事務所の扉を叩いた。


「こんばんは」

「こんばんは」


彼女が来たことを奥さんに告げる前に、

気づいた『パール』が、カチカチと爪の音をさせながら走ってきた。

勢いあまって、床に敷いていた絨毯に乗ったまま滑ってしまい、

机の脚に体ごと激突する。


「『パール』危ない」

「全くお前は……」


『パール』をなでる彼女の右手には、少し大きめの絆創膏が貼ってあった。


「右手、どうしたの?」


以前から何度か見ていた彼女の白い手。

傷でも作ったのだろうかと思い、僕はつい聞いてしまった。


「あぁ、これですね」


椎名さんは、フライを揚げようとして、

油がはねてしまったのだと、照れくさそうに教えてくれる。


「やけど?」

「はい。箸でエビを持ち上げたところまではよかったのに、滑り落ちてしまって、
勢いよく油の中に入ったおかげで、バチッと……跳ねました」

「あぁ……」


僕は、頭の中で、天ぷら鍋から油が飛び跳ねる映像と思い浮かべる。

一瞬で、逃げることなど不可能だろう。


「それがここに跳ねて、.水ぶくれが出来てしまって、それで。
でも、よかったって言われました。顔に跳ねなくて」


椎名さんは、絆創膏の部分を照れくさそうになでながら、顔に跳ねなかったこと、

火事を出さなかったことを、誇らしげに語ってくれた。

確かに、そう言われたらそうだけれど、水ぶくれも相当痛いだろう。


「で、これを買いました」


椎名さんは今日はここに来る前に、駅前の書店で本を買ってきたのだとそういった。

ソファーの上には、確かに紙袋が置かれている。


「『初心者でも出来る夕飯のおかず』という本です。
いきなり天ぷらは、何も出来ない私には難度が高かったみたいで。
実家の母にもストップをかけられました」


椎名さんは、絆創膏を見ながら、少しだけめくれた部分を直そうとする。


「半田さんのおかげで、ご飯とお味噌汁は失敗なく作れるようになりましたから、
これからはおかずをどうにかしないとと思って。でも、気持ちばかりが焦ってしまって、
なかなか身につきません」


当たり前の話しだけれど、一人で暮らすというのは、全てを一人でこなすことだ。

どんなに疲れていても、自分が動かなければ、何も変わらない。

9月の始めに引っ越してきたのだから、そろそろ1ヶ月。

仕事、『パール』の世話、家事、思っていたよりも大変ではないだろうか。


「……無理、しているのではないですか?」


僕は、祖母が入院していた日々だけでも、大変だった。

無理しているのではないかという言葉は、僕にとって自然なものだが、

椎名さんは黙ったままで、首を振る。


「無理……しているのかもしれません。でも、しなければ何も変わらないと思うので」



『無理をしなければ変わらない』



その言葉は、大きく動くことをどこかで避けている僕にとって、

ずっしりと胸の奥に残される。

『無理』をしてまで変えたいものがあるのだと、そう言われた気がした。





「あぁ、遥ちゃん。お帰りなさい」

「こんばんは」

「ごめんね、電話が鳴ってしまって。学生時代の友人だったから、
長くなってしまったの」

「いいですよ、そんなこと」


母屋から奥さんが登場し、椎名さんはソファーから立ち上がる。

椎名さんが事務所を出て行ったのは、それから10分後のことだった。





カレンダーが10月に入り、工場内は朝から慌しかった。

『TEA』さんから紹介された『ハウジングネット』の営業車が、

整備点検と修理依頼のため、順番に入っては出て行くことを繰り返す。

栗丘さんも赤石さんも休みなく働き、僕もその作業に必死についていく。

いつもならのんびり新聞を読むところから始まる社長の一日も、

ここは踏ん張り時だとわかっているのか、最終ページの漫画を読むだけにして、

すぐに作業を開始した。


「歩」

「はい」

「切りのいいところで、昼飯にしよう」

「はい」


時には、どこで昼食を取ったらいいのかわからないくらい、仕事があり、

贅沢な悲鳴を上げる日もあった。



しかし、その慌しさにいつもと違う光景を見逃していた僕達も、

おかしな日々が3日続くと、何かあったのではないかと思い出す。



そう、この3日間、『パール』は顔を見せていない。



【12-5】

イメージだけでは、人のことは語れない。
歩は、『その人』を少しずつ知り始め……
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