17 心のバランス 【17-5】

【17-5】

わかっていたはずなのに、冷静になろうと思っていたはずなのに……

『お待ちください』のセリフが出てこない。


「どうしたの? 私宛?」

「いえ、違います」


経理の塩野さんにそう言われ、私は首を振った。

すぐに受話器を保留にする。


「三村さん」

「……俺?」

「はい」


三村さんは、自分宛だと思っていなかったのだろう、

本当に自分なのかと、確認するように、指で示す。

相手が『古川紗枝』さんだとわかったら、どういう表情をするだろう。

この名前を、私が言ったとき……



嬉しそうな顔を、目の前で見せられるのだろうか。



「古川紗枝さんという方です」


三村さんの表情は、特に何も変わらない。

慌てる様子もないし、だからといって、嬉しそうでもなくて……


「依頼主さんですか?」

「いや……」


仕事の関係者ではなかった。


「すみません、今、忙しいからかけなおすって、言ってもらえませんか」

「……はい」


私は、受話器の向こうにいる古川さんに向かって、

今、手が離せないのでかけなおすということを告げる。



『クスッ……そうですか、はい、わかりました』



古川さんは、『あとから』というこの返事を、予想していたのだろう。

少し照れくさそうな笑いを、受話器越しに送ってくる。



『あの……』

「はい」

『仕事中にかけてきたって、紘生、怒っていますか?』


三村さんは、視線をすでに図面に落としていて、私からは表情が見えない。


「いえ、怒ってはいないと思いますよ」

『そうですか、ありがとうございます』


私は失礼しますと挨拶をし、受話器を置く。

三村さんはこちらを気にすることなく、ペンを取り、直しの続きを始めてしまった。

私も、PC画面でその箇所を見ながら、線を引く。

数ミリの調整。ここでずれてしまったら、先まで影響する。



……だから、手を止める。



『紘生、怒っていますか?』



紘生……

三村さんの名前。



前を向いても、その視線がこちらに来ることはない。

電話がかかってくる前には、『私の夢』を聞いてくれたのに、

途切れてしまったため、言うことなく終わってしまった。


「三村さん」

「はい」

「大丈夫ですか? 電話、切ってしまって」

「大丈夫です」


名乗ってかけてきた相手の電話を、こっちの事情で切れるのは、

そこに信頼関係があるということ。


「でも、すぐにかけてあげたほうがいいですよ。
仕事中にかけてきて怒ってますかって、気にされてましたから」


余計なことを言ってしまった。そんなこと、私が指図することではないのに。


「あぁ……はい。後でかけますから、いいですよ」


緊急とは言えない内容なのだろう。

かけた方も、かけられた方も、どちらも急いでいない。



『仕事中にかけてきたって、怒っていますか?』



そう、個人的な電話なら、携帯にかけたらいいのに。

緊急でないのなら、職場にかけてくる必要があったのだろうか。

何か起きたのかと思ってしまうし……



……って、私。



彼女の名前を勝手に見るという、最低なことをしたくせに、

それでもまだ……嫌な女になっていっている。



「長峰さん……」


私が急に立ち上がったので、三村さんはどうしたのかとこっちを見た。


「ちょっと、すみません。なんだか煮詰まってしまったので、
ふらっと歩いてきます。すぐに戻ります」


自分で自分が、本当に嫌になった。

昨日、幹人と会ったのに。そこで不幸せな彼を見て、誓ったはずなのに。

もう、今の電話だけで、頭の中がごちゃ混ぜになり始める。

今、いるこの場所に、目の前にいる人に、私は何を期待しているのだろう。

私は、こんなふうになりたくて、ここに残ったのだろうか。

悔しさと空しさに縛られた気持ちを抱えたまま、財布を掴みそのまま事務所を出た。




【17-6】


《 Dressing人物紹介&豆知識 》

【迫田勝男】
和歌山に住む、知花の祖父。(知花の母、真子の父親)
幼い頃の知花を、よく山に連れて入っていた。
知花が『木』を好きになるきっかけを作ってくれた人。

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