2 つかまれた腕

2 つかまれた腕

広橋君のピアノを最後まで聴き終えた時、私は初めて自分が泣いていることに気付き、

慌ててティッシュを掴んだ。

ピアノの蓋を閉めた彼は、立ち上がり椅子を元の場所に置き、

私の動きを気にかけることなく、窓の外へ視線を移す。

私は小さな椅子に座り、テーブルの上に置いてあった書類を書き終え、印鑑を押した。


「思い出があるんですね、この曲に」

「……うん」


広橋君はそう問いかけてきたが、どんな思い出なのか聞くことはなく、

私の書いた書類を受け取り、一度頭を下げると、玄関へ戻り靴を履き始めた。


「ありがとう。ごめんね、時間を取らせちゃって」

「いえ……」


背中を向けたまま、靴紐を結び直している彼を見ながら、

なんだかしんみりしてしまったことが申し訳なくて、私はわざと明るい声で問いかけた。


「ねぇ、甘夏があるの。お礼に持って行かない?」

「お礼?」

「うん、ピアノを弾いてくれたお礼」


何日か前に、義兄の実家から贈られてきたと、姉がお裾分けしてくれた甘夏を思いだし、

私が奥へ戻ろうとすると、広橋君は腕をつかみそれを止めた。

引き戻されるような、その力強さに、私の鼓動が素早く動き出す。


「甘夏はいりません」

「……」

「キスしてください……」


何を言われたのか、一瞬、状況がつかめなかった。

自分の部屋にいるはずなのに、足元がふわふわと浮いている気がする。

私の間の抜けた表情を確認した広橋君は、笑いをこらえながら腕を離した。


「冗談です! じゃ!」


聞き間違いではなかった。初対面に近い学生のふざけた一言に、気持ちが振り回され、

私の中で広橋蓮の存在は、何百分の一である学生から大きく膨らんだ。





新学期が始まり、慌ただしかった何日かが過ぎた頃、

私は仕事の合間に、広橋蓮の名簿を調べて見た。

3年生だと言いながら、少し大人びて見えた彼は、やはり25才という年齢で、

他の学生に比べると、年を重ねている。

経済学部は2年間、都心から離れた森山キャンパスで授業をしていたため、

今まであまり会う機会もなく、顔がすぐに浮かばないのは当然だった。





私はその書類を閉じ、元の位置に戻すと、雪岡教授に頼まれていた本を抱え、

研究室へ向かう。

雪岡教授は、亡くなった父の友人で、私がこの大学に就職するときにもお世話になった。

子供がいないため、昔から私と姉を娘のようにかわいがってくれる。


「雪岡先生、頼まれていた本が届いてましたよ」

「おぉ敦子、悪いな。そこらへんに置いてくれ」


先生は机の横にある台を指さし、私に指示をしたが、その台にはすでに本や書類が山積みで、

触れることが怖くなる。


「先生、ここに置いたら埋もれちゃいません?」

「ん? 大丈夫だ、読んでいない本は、なぜか自分から存在をアピールしてくるからな。
あ、そうだ、それより、お前、引っ越しは無事に済んだのか?」

「はい、もうすっかり新生活に慣れました。前のところに比べたら、
コンビニも近いですし、生活はしやすいんですよ」

「そうか、そりゃよかったな。でも、暗い道だけは気をつけろよ。お前もいい歳なんだから」

「わかってます……」


教授のテーブルの上には、『新人歓迎コンパ』と書かれた1枚のチラシが置かれていた。

毎年この時期は、サークルが新人を集めるのに忙しく、歩いているだけで、

何枚ものチラシを掴まされる。それでも大学が華やかに見える季節だ。


「先生、相変わらず人気者なんですね」

「ん?」


私がそのチラシを指さすと、雪岡先生は迷惑そうな顔をして笑った。

目尻のしわが、優しい顔を際だたせる。


「金だけ出せってことなんだ。あいつら、普段はいないほうがいいとか言いながら、
こんな時だけすぐに持ってくる」

「そうですか? でも、上松教授は、誘われもしないって嘆いていらっしゃいましたよ」

「あいつは、ケチだからだ!」


雪岡教授はそのチラシを手に取り、私に手渡した。

敦子が行くなら一緒に行くぞと笑い、私を困らせる。


「先生、私なんかが行ったら笑われます」


そう言って、何気なく幹事メンバーの名前を見ると、

3人の中に『広橋蓮』の名前が記されていた。


「広橋君……」

「ん? 広橋を知ってるのか?」

「引っ越しの業者でバイトをしてたんです。偶然、私の部屋の担当で来てくれて」

「引っ越し? あぁ、そう言えばアイツは高校を出てからそこで勤めていたらしいな。
今でも土日だけはバイトしているって、滝川が嘆いてた。デートする暇もないって……」


滝川……。広橋君の名前の下に、滝川菜摘と書いてある。

デートをする暇がないと言うことは、この二人はそんな仲なのだろうか。


「広橋はお母さんの体が弱くて、大学に入る金を貯めてから入ってきたんだ。
だから年齢も高い。成績は優秀な男だから、推薦でいいところに就職も狙えると思うんだが、
近頃、企業も厳しいからな」

「そうなんですか……」


私はチラシを教授に戻し、積み上げた本の山を崩さないように研究室を出た。





春の爽やかな風が窓から進入し、私の頬をくすぐっていく。

そんな自然の誘いに応えようと、そのまま事務局へは戻らずに、

階段をゆっくりと昇り屋上へ向かった。


『立ち入り禁止』と書いた小さな看板が、扉の前に置かれているが、

なぜかカギはいつも開いている。

少し錆び付いた重たい扉をゆっくり開けると、迎えてくれた春の日差しは、

ふんわりと背中にあたり、私に語りかける。

その心地よさに背伸びをしながら進むと、古いベンチに寝ている人の足が見えた。


静かにその足へ近づくと、顔を雑誌で覆った学生が眠っていて、

時計を見ると、まだ授業中だったので、私は息を吸い込み軽く足を叩いた。


「ちょっと、こんなところで寝ていたらダメよ。講義に出ないと!」


そう声をかけてみたが、眠りが深いようで学生は動かない。

立ち入り禁止と書いてある、看板を無視して寝ているのだから

起こさなければならないと叩く私の力は、任務という名のもとでだんだん強くなる。


「ちょっと! ねぇ!」

「……垣内さん……大目に見て」

「……エ……何? 広橋君?」


寝ていた学生は広橋蓮だった。雑誌から顔半分を出し、私を見て笑っている。


「大目になんて見られないわよ。あなたは今、上松教授の講義でしょ。
ダメじゃない、ここにいたら」

「つまらないから出ません。ここで睡眠を取る方が、僕にとっては有益だ」


そう堂々と宣言をした広橋君は、また雑誌を顔にかぶせてしまう。

また、眠りの世界に飛ばれては大変だと、私は一歩近づき、耳に向かって問いかける。


「何を言ってるのよ、それにここは立ち入り禁止なのよ! わかってるの?」

「……お互い様じゃないですか」


そう言われて、私は何もいえなかった。

正義感を振りかざしたものの、自分のミスはすっかり忘れている。


「昨日もバイトで疲れたんですよ。特に腰が……」

「腰?」

「ちょっとひねって……」



広橋君のお母さんは、体が弱いのだと雪岡教授が言ったことを思い出し、

私の怒りのエネルギーは、別の方向へ流れてしまった。

派手なブランドを着こなしたり、車を親から与えてもらうような学生では、彼はなかった。


「バイトもいいけど、無理しない方がいいわよ」

「はい……。ありがとうございます」


広橋君は、そう返事をし、笑顔のまま両手を私の方へ伸ばしてみせた。

何をするのかと問いかけると、腰が痛いので、引き上げて欲しいと言う。


「グッと力を入れる瞬間が、一番痛いんです。補助してもらえませんか?」

「うん……」


私は彼の手をつかみ、少し自分の方へ引き寄せようとしたが、

その瞬間、引き寄せられたのは私の方で、崩れ落ちるように彼の上に重なってしまう。


「あはは……」


広橋君は思いきり笑いだし、自分の力だけで起き上がった。

その動きからは、腰の痛みなど全く感じない。


「腰は?」

「平気です。それにしても垣内さん、簡単に騙されちゃうんだな、まずいですよ、
男をそんなに信用したら……。今、抱きしめようと思ったら、いけましたよね」


私は完全にからかわれた。いつのまにか私の両腕をつかんでいるのは彼で、

離れようと思っても、引っ張られてしまう。


「ちょっと……広橋君、手を離して」

「年齢いくつですか? 垣内敦子さん」


名字の下に名前をつけ、こっちがどんな反応を示すのか、

探っているような広橋君の視線が、私の動揺を見抜こうとする。


「いくつだっていいでしょ、離して!」

「答えたら離します」


私は離れたい一身で正直に27だと答えた。

春の気持ちいい風に吹かれようとここへ来たのに、身動きが取れない状況で、

早く逃げ出したい気持ちだけが、足踏みを始める。


「27か……2つくらい平気ですよ」

「何を言ってるの?」

「僕とつきあいませんか?」


私は必死に彼の腕をはがすと、精一杯の威圧感を出し、にらみつけてやった。

そう、あの引っ越しの日、父のピアノで彼が弾いてくれた『革命』に感動し、

涙を見せたのが失敗だった。簡単になびく女だと、バカにされている。


「ふざけたことを言わないで。あなた学生でしょ?」

「学生ですけど、男です」


真剣な表情で私を見る目に耐えられず、学生を講義に戻すという任務も放り投げ、

慌てて階段を駆け下りた。


屋上で新鮮な空気を吸うことが好きだったが、二度とここへは来たくない。

そんな思いで、心がいっぱいになった。





3 水曜日のチケット へ……




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コメント

非公開コメント

ありがとう

ナイショさん、こんばんは!

サークルでも読んで、こっちでも読んでくれているとのこと、
ありがとうございます。

毎週同じような時間にUPだと思いますので、
最後までお付き合いお願いします。

ももちゃん、こんにちはv-22

「君に奏でる愛の詩」、何だかドキドキするv-238
ピアノを弾くひと、顔を雑誌で覆う学生、年上...
かの人と自分を重ねそうでコワイわぁ。゚ ゚(≧丱≦)゚ ゚。


強引ぐ~~~ッ

明るく振舞ってるけど辛い思いもしてきたのでしょうね。
高校を卒業して働いてお金貯めて大学に・・・同級生より大人な25歳の蓮。

恋の駆け引きも随分経験してきた?

27歳にしては初心な敦子さん、強引蓮に良い様に振り回されそうね。

気をつけて!!!!

いいんだよ

midori♪さん、こんばんは!


>ピアノを弾くひと、顔を雑誌で覆う学生、年上...
 かの人と自分を重ねそうでコワイわぁ。゚ ゚(≧丱≦)゚ ゚。

いいんだよ。どんどん重ねて!
敦子になって、笑って、泣いてくださいな。
ドキドキ……続くように頑張るね!

蓮の事情

yonyonさん、こんばんは!


>明るく振舞ってるけど辛い思いもしてきたのでしょうね。
 高校を卒業して働いてお金貯めて大学に・・・
 同級生より大人な25歳の蓮。

はい、その通りです。
蓮にも事情があるんですよ、まぁ、それは後々


>27歳にしては初心な敦子さん、
 強引蓮に良い様に振り回されそうね。
 気をつけて!!!!

エーッ! 振り回されろって思ってるんじゃないの?
まぁ、いいや。また、読んでね!

蓮の顔

yokanさん、こんばんは!


>どこまでが冗談なのか、本気なのか、つかみ所のない広橋君、
 敦子さんはそう感じているのでは・・・

違った顔を見せられると、人はドキッとするし、また、強い印象を残す気がします。
敦子にとって蓮が、どんな印象を残していくのか、また、次を待っていてくださいね

空想は楽しい

mamanさん、こんばんは!


>敦子さんになったり、広橋くんになったりして読んでます。

はい、どっちにもなって、あれこれ空想しながら読み進めてください。
それも創作の楽しみのひとつですからね。