23 思い込みの法則 【23-4】

「……猪熊さん」


岳の探したのは、ベテラン営業マンの猪熊だった。

定年間近の猪熊は、週末には現場に出ることもあるが、普段はほとんど内勤になっている。


「何か……」

「お願いがあるのですが」


岳は、今までモデルルームなどで取りためたアンケートを、

あらためて見せてもらえないだろうかと、そう言った。

猪熊はデスクに置いた缶コーヒーを飲み干すと、データ状態になっているけれど、

それでいいのだろうかと確認する。


「はい……」

「急にどうしたのですか。アンケートの掘り起しなど、
他のメンバーにさせてもいいだろうに」


猪熊はデスクから鍵を取り出すと、データの入ったUSBの入った箱を開ける。


「『ひとりよがり』という言葉が、頭の中を回りました」


岳は、そういうと少しだけ口角があがる。


「ほぉ……」


猪熊は穏やかな岳の表情を見ながら、『無くさないで欲しい』と笑みを浮かべ、

データのUSBを手渡した。



「次なる企画のために、みなさんにお願いすることになりました」


岳は猪熊から受け取ったデータを呼び起こすと、

経営企画部の事務補助をする女子社員数名を呼び出した。

過去のアンケート結果のまとめを頼むことになったと、仕事の説明をする。

千晴も当然その中に入り、岳からの指示を受ける。


「川井さんは、3から5の部分をお願いします」

「……はい」


過去のデータを1から見直すのは面倒な仕事だったが、

『岳からの指示』ということもあり、千晴は書類を受け取る。


「よろしくお願いします」


千晴は、自分たちに向かって頭を下げる岳の姿に驚きながらも、『はい』と返事をした。





「涼子ちゃん」


待ち合わせ場所についた敦は、車に乗ってきたからとそう話した。

涼子は浮かない顔のまま、『うん』と頷く。


「どうした……なんだか疲れているみたいだけれど。もしかしたら体調でも悪いの?」


敦は、ここまで来るのが大変だったのだろうと、そう涼子をいたわった。

涼子は敦が心配してしまうと思い、元気な顔を作ってみせる。


「そうかも。都心に向かう電車に、久しぶりに乗ったからかな。
『はぁ……』って感じかも」


涼子はそういうと、停めてある車の方へ歩き出した。

敦はその横に並ぶ。


「さぁ、お台場に行きましょう」


涼子の声に、敦はエンジンをかける。

二人を乗せた車は、『お台場』に向かって出発した。



敦と涼子は、海の見える場所に行ったり、イベント会場に足を運んだりしながら、

『お台場』の楽しさを満喫した。

窓の大きな景色のいいレストランに入り、ランチをとることにする。


「すごいね……都心って感じ」


涼子は見た目楽しそうに笑っていたが、時折寂しそうに下を向くことがあり、

敦は、その笑顔が全てではない気がして気になった。

それでも、精一杯時間を有効に使い、近頃文明から離れていると言っていた涼子に、

ゲームやアトラクションを進め、笑顔を引き出してく。

そして、遊び疲れた頃、涼子は車を少し静かな場所に停めて欲しいとそう言った。


「ここ?」

「そう……」


涼子が車を停めて欲しいと頼んだのは、駅から続く道の先にある場所だった。

土産物の店も、お茶が出来そうなカフェもない。

敦はやはりどこかおかしな気がして、何かあったのと聞く。


「あつくん」

「何?」


涼子は敦をじっと見た。

敦は、どこか嫌な予感がし始める。


「何があったの……」

「この間、この人が伊豆まで来たの」


涼子がバッグから取り出したのは、『川井千晴』と書かれた名刺だった。

千晴の名前を見た敦は、涼子の手から千晴の名刺を取ると、そのまま目の前で破る。

まだ何かを聞いたわけではないが、おそらくいい話にはなっていないだろうと、

そう考えた。涼子はその行為を助手席から見ながら、

やはり敦の知り合いなのだと思う。

数秒の時間が、もっと長く感じられるほど、車内の空気が重くなる。


「この人が涼子ちゃんのところに行って、何を話したのか知らないけれど、
気にすることもないし、まともに考えることもない」


敦は、そう訴える。


「何も話していないのに、そんなふうに……」

「わかるからだよ。いつも人の気持ちを逆なでするようなことしかしない人なんだ。
だから……」

「最初はね、私もそう思ったの……」


涼子は、千晴が伊豆に来て語ったことを思い出しながら、敦を見た。

『最初は』という言葉が、単に心変わりを表現するようで、敦はさらに不安になる。


「何を言った?」

「これから結婚するお兄さんのお相手が、『三国屋』のお嬢さんだって。
だから、弟としてあつくんにも、それに並ぶような方とお付き合いを……」

「関係ないよ、そんなこと」


敦は、自分は跡取りではないから、そんなことは何も関係ないとそう強く言った。

涼子は敦の表情を見ながら、この人が『野口敦』のままなら、

どれほどよかったかと考える。


「そう、最初はね何を言っているのかと、そう思ったの。
久しぶりに再会して、本当にあつくんと話すことが楽しかったし、
お付き合いして欲しいと言われて、心の底から嬉しかったの。それは間違いない」


涼子はクリスマスの頃を思い出し、そう話す。


「でも……だんだん自信がなくなってしまって」

「涼子ちゃん」

「あつくんとこれからを楽しく過ごすということより、不安の方が強くなった」


涼子は、今ならまだ、友達だと思うことが出来ると、そう話す。


「あのさ、この名刺の川井千晴って人は、僕の従兄弟だけれど、
今言った通りとても身勝手な人なんだ。自分が思ったことを、
迷惑など関係なく進めてしまうから。祖父だって、涼子ちゃんを認めてくれていた。
うちは……」

「お母さんが、そう望んでいると……」


敦は、母、浩美の名前を出されたことで、セリフが続かなくなる。


「あつくんを一生懸命に育てた、お母さんの思いを無視してまで、
私……あつくんのそばにいる自信がない」


敦は、『豆風家』に異動することを反対していた母が、千晴に頼んで、

涼子に会いに行かせたのかもしれないと、そう考える。


「まだお付き合いを始めるか始めないかのところで、こんなこと考えすぎかもしれない。
でも、それだけ千晴さんという人の話には重みがあった」


『BEANS』という、相原家という大きな壁が、敦の目の前に広がっていく。


「望まれていないとわかっていて、それを無視できるほど、
自分が強くないとそう思ったの。ごめんね……あつくん。お付き合いは白紙にして」


涼子はそういうと、『ごめんなさい』と頭を下げる。


「私、周りから祝福してもらえるような……そんな結婚をしたいから」


涼子は下を向いたままの敦の顔を見たが、それを振り切るように助手席の扉を開ける。


「ごめんね……あつくん」


涼子は謝罪の言葉だけを、敦の耳に何度も残し、目の前から消えていった。

今から追いかけて、腕をつかまえたら、まだ取り戻せるかもしれない。

そんな考えが敦の脳裏に浮かんだのは、ほんの一瞬だった。

それよりも、自分が涼子を引き止めることが、彼女の自由をただ、

奪ってしまうような気になっていく。


自分自身、長い間、相原家の中でそう思い続けてきたように。


敦はしばらくその場に車を停めたまま、街を歩く人たちの動きを見続ける。

人は同じように息をして、生活しているはずなのに、自分はその当たり前の世界から、

取り残されたような気になった。







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