3 水曜日のチケット

3 水曜日のチケット

次の日の朝は、私が思っていたよりも早い時間に目が覚めた。

昨日の夜、お風呂に入り、広橋君に捕まれた腕を何度も洗ったのに、

感覚だけは洗い流せずに、すぐよみがえってくる。



『僕とつきあいませんか?』



2つも年下の、しかも学生にからかわれたことは、とても腹が立つが、

心のどこかで、彼を素敵な人ではないかと思った自分に、さらに腹が立った。

父がピアノを愛した人だからなのか、その共通点を見つけただけで、

いい人だと思ってしまった、全ては自分の責任だ。


昨日帰りに買ってきたロールパンにハムとレタスやトマトを挟み込み、

思い切り大きな口を開けて食べてみる。

シャリっとみずみずしい音がして、その日の朝を幕開けした。





「おはようございます!」

「……おはようござ……」


その声に顔を上げると、広橋君が立っていた。全く、あんな失礼なことをしたくせに、

よく平気な顔をして、堂々と姿を見せられるものだと呆れかえる。

事務局のカウンターの上に、茶色の紙袋をポンと置き、左肘を台に乗せ、

広橋君は人の目の前でほおづえをついた。


「敦子さん……」

「垣内さんと呼んでください。広橋君に敦子さんと呼ばれる覚えはありません」


思い切り冷たい口調でそう言ってやる。そうだ、初めからこうしておけばよかった。

用がないなら、さっさとどきなさいと態度に出し、忙しさをアピールするために、

私は手元に置かれた書類に、確認の印を押していく。


「怒らせちゃったのか。でも、そんな顔も素敵です」


こんなとってつけたような言葉に、反応しちゃいけない。

同じリズムで、同じ動作を繰り返しながら、広橋君の話を完全に無視し続けた。

それにしても、彼が置いた紙袋から、美味しそうなパンの匂いが漂ってくる。


「これ、一緒に行ってくれませんか?」

「あ……」


同じリズムで印を押していた紙の上に、広橋君が別の用紙を素早く置いたため、

私は『事務局 垣内』と書かれた印を、思わず押してしまう。


「やった……ハンコをもらった!」

「無効です」


置かれた書類は、先日雪岡教授が見せてくれた『新人歓迎コンパ』のチラシだった。

私はそれを半分に破り、印の跡が残らないようさらに破り、彼に突き返す。


「私が行くところじゃないし、あなたと行く理由がないですから」

「理由はありますよ。僕が連れて行きたいからです」

「結構です!」


そんな会話をしていると、事務局の入り口に一人の女性の姿が見えた。

明らかに私をにらみつけ、不機嫌そうな顔を向けている。


「蓮! 行こうよ」

「用があるんだ、先に行ってろよ、菜摘」



菜摘……。広橋君と幹事の名前を連ねていた女性がこの人なのだと、私の視線も彼女へ移る。

ストレートな黒髪が、まっすぐで勝ち気そうな性質を表しているように見えた。


「ほら、彼女が待っているじゃない。くだらない冗談はここまでにして、教室へ入りなさい」

「彼女じゃないですよ。友達です」


そう言われた滝川さんは、広橋君に向かって小さなノートを投げつけた。

コントロールよく、右足にあたり下へ落ちると、広橋君はそれを拾いポケットに入れ、

滝川さんを無視したまま立っている。


「あとは蓮がまとめてよね! もう知らないから!」


誰から見ても明らかにわかる焼きもちを焼き、滝川さんは事務局を出て行った。

あのように感情を表に出せることは、若い学生だから出来ることだろうと、

そんな時代を通りすぎた私には、なんだかうらやましくなる。


「この日、何か用事でもあるんですか?」

「あってもなくても行かないから。ほら、教室へ行って!」


広橋君は一瞬不満そうな顔をしたが、横に置いてある紙袋を軽く両手で挟み、

パン……と叩いた。ふわりと漂っていた香りが、一気に私の鼻へ届く。


「どうですか? 行ってくれるなら、これ、あげますよ。
角に出来た店ので、ちょうど焼きたての限定なんです。あと少しでお昼だし……」

「結構です!」


私の力の入った一言に観念したのか、広橋君は丁寧に頭を下げ事務局を出て行く。

その後ろ姿をしっかりと見届けた後、私は止まった仕事をまた開始した。





しかし、彼に強く否定した『新人歓迎コンパ』だったが、思いがけないところから

プレッシャーがかかり、私は雪岡教授と参加せざるを得なくなった。


『近頃、学生達が羽目を外し、駅前の色々な店から苦情が出ています。
まだ未成年の学生もいますし、学校側としても無視は出来ません。
職員は彼らを守る立場として参加し、指導にあたってください』


事務局長の報告から、事務員達が手分けして出席することになり、

私は雪岡教授とコンビで、広橋君が幹事をするコンパの担当になってしまった。

事務局の人間が、会場の隅に座り、学生達に目を向けることで、

抑止につながるという学校側の考えだが、今時の学生は、私ごときの目など

気にしているようなところは何もない。


「サークルの紹介なども終わったことだし、そろそろ自己紹介をお願いします!」


前に立ち司会をするのは、広橋君ではなく、同じ経済学部の学生だった。

なんの根拠もなく、人をしつこく誘った男は、私と反対側のテーブルの隅に座り、

マイペースで飲み続けている。その隣にはぴったりと滝川さんがついていた。


テーブルの端に座っていた女子学生から、一人ずつ挨拶をする。

初めての東京生活で緊張していることや、やっと受験が終わり、自由に遊べるなど、

それぞれかわいらしい笑顔を見せ、歓迎の拍手を受けた。


10人目の男性が話す頃には、隣に座る雪岡教授はこっくりと舟を漕ぎ始め、

教え子の自己紹介など、全く耳に届かなくなる。


お酒が弱いくせに、早いペースで飲んでしまうので、昔、父とうちで飲んでいても

酔いつぶれてしまうことがよくあったと、母から聞いたことを思い出した。


「じゃぁ、これで全員だね……」

「もう一人、自己紹介してもらおうよ」


司会の学生が自己紹介の波を沈めようとしたのに、広橋君は私を指さし、

自己紹介を要求する。それぞれ飲んでいた学生達の目が、隅にいる私に集まり出した。

頼りにしたい教授を起こそうとしたが、こっちの世界に戻る様子は見られない。


「事務局の方が来て下さったんだ。ちゃんと顔を覚えて、
1年生は挨拶が出来るようにならないとな」


もっともらしいことを言いながらも、にやけた顔で、広橋君は私を見た。

どこか挑戦的な態度に思えて視線を外したが、状況的に断るわけにはいかず、

ただ、名前を言うだけだと心を決め、私はグラスをテーブルに置き立ち上がる。


「事務局にいます、垣内敦子です。まだ、校内に慣れない方も多いと思いますが、
わからないことは聞いて下さい。みなさんが、勉強に集中できる環境を作れるように、
頑張ります」


かわいらしくもない、色気もそっけもない自己紹介は終わりを告げ、

それでも周りを囲む学生は、おきまりの拍手を返してくれた。


学校側は学生の騒ぎ方をあれこれ言っていたが、見ている限りでは、

そんなに言われるほどのものでもなく、迎える側も飛び込んだ側も、

それなりに楽しんでいるように見えた。





「大丈夫?」

「大丈夫ですよ、雪岡教授はいつもこんな感じですから」

「広橋、二次会はどこだ!」

「はい、はい、行きますよ、教授」


広橋君は一次会を終え、すっかり酔いつぶれた教授を支えながら、

駅前までタクシーを拾いに歩き出した。私は教授の荷物を持ち、その後に続く。

様子に気付いた1台が目の前に止まり、教授はありがとうと挨拶をすると、自ら乗り込んだ。


私は荷物を手渡し、お疲れ様でしたと軽く頭を下げる。


「七塚町の郵便局通りまで!」


タクシーの扉が閉まり、雪岡教授を乗せたタクシーは私の前を走り去った。

教授の荷物がなくなり、任務を終えた私の右腕を、隣の広橋君につかまれる。


「二次会、行きましょう!」

「……ちょっと、行かないわよ、もう帰るから」

「どうして?」

「どうしてじゃないわ。雪岡先生が帰ったんだもの。私は仕事で来たのよ。
二次会に行く理由もないし……」


相変わらず手を引く力が強い。外そうと引っ張るが、彼の腕はびくともしない。


「また、理由かぁ……じゃぁ、この間のお礼にしてください」

「お礼?」

「ほら、ショパンの革命!」


そうだった。父の面影が感じるあの曲を、彼は見事に弾きこなしてくれた。

私は感動して、お礼をしたいと言ったことを思い出す。


「でも……」

「ほら……」


こんな強引な人に出会ったことはなかった。乱されるペースに怒りがわきながらも、

なぜか流されていく自分がいる。

思ったよりも大きい歩幅に慌てながら、私は彼の力に引かれ、懸命に歩き続けた。





二次会だと言われついて行くと、入った場所は小さな映画館だった。

宣伝を大きく打つような作品ではなく、古いフランス映画が上映されている。

スタートから5分ほど過ぎていて、私達は劇場のほぼ真ん中に座りモノクロの画面を見た。


「ねぇ……二次会ってここ?」

「そうです。僕はあんまりわいわい騒ぐのが好きじゃないから。
飲むのも歌うのも、もういいでしょ」


古い映画館の椅子なのに、なぜか座り心地がよく、広橋君は慣れているのか

深く腰を下ろし、しっかりと画面に目を向ける。

私はとりあえず携帯で時間を確認し、上映が終わっても終電には間に合うと

少しだけ安心した。


「ねぇ……」

「シーッ!」


人を無理矢理連れてきておいて、口の前に指を立て、私に話すなと言い切る態度に

一瞬ムッとしたが、そのうち、画面に映し出される映画の内容に引き込まれ、

私は隣に広橋君がいることさえ、忘れていた。





「ありがとう、なんだか素敵な時間を過ごせた気がする」

「普段は興行成績のあがるような作品を上映しているんですけど、水曜の最後の時間だけ、
昔の映画をやるんです。オーナーの叔父さんは、本当は名画好きで、あ……そうだ」


広橋君はポケットに入れてあった財布を取り、中から小さな半券を取り出した。

それを1枚だけちぎると、私に差し出す。


「これ、水曜日の回数券なんです。1枚あげますよ」

「……あ、いいわよ。もう、見に来るかどうかもわからないし」

「期限はないですから、どうぞ」


頭ではそんなことはずうずうしいと思いながら、いつの間にか私の手は、

彼のチケットをつかんでいた。





4 隣の席の男 へ……




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コメント

非公開コメント

ももちゃん こんばんは^^
あちらでコメントしそこなったので、こちらで書かせてください~^m^

ちょっと強引な広橋くん、相変わらず、いい味出してますね^^

敦子さんは2歳年上っていう年齢と、職員って立場が、かなり心を頑なにさせてますね・・。
でも、映画の後
「ありがとう、なんだか素敵な時間を過ごせた気がする」って
一言がとっても素直で可愛く感じました^^

広橋くんのまた違った一面が、彼女の心をだんだん溶かしていくのかな^^?

それにしても、ももちゃん
「職員が学生抑制のためにコンパに同席」・・・な~んて良く考え付いたね(〃▽〃)




敦子の気持ち

eikoちゃん、こんばんは!


>敦子さんは2歳年上っていう年齢と、職員って立場が、
 かなり心を頑なにさせてますね・・。

学校という特別な環境と、雪岡教授に世話になっているというところが、
敦子の気持ちの堅さなんでしょうね。
もちろん、これから変わるんですけど。


>広橋くんのまた違った一面が、
 彼女の心をだんだん溶かしていくのかな^^?

うふふ……。
そうそう、溶かしちゃうんですよぉ……


>それにしても、ももちゃん
 「職員が学生抑制のためにコンパに同席」・・・
 な~んて良く考え付いたね(〃▽〃)

どうしてもコンパに行かせたかったの。
まぁ、カニに近い、かにもどきということで(笑)

映画が・・

一目惚れの連君(私はそうだと決めている) 何とか距離を詰めたいと必死さが可愛い。

何となく連れて行かれた映画館、良いものを見たりすると心が素直になってしまう。

新しい恋に躊躇する過去があるのかな?

無理しないでね

yonyonさん、こんばんは!

あっちでも読んでくれて、こっちでも読んでくれて、しかも両方にレスを入れてくれて……で、
4倍時間をかけてませんか?

無理しないでくださいよ。途中で、全部辞めた! になるのが、一番寂しいので(ノ_σ)クスン


>何となく連れて行かれた映画館、
 良いものを見たりすると心が素直になってしまう。

いつもはね、大学という大きな器があるので、構えていた敦子ですけれど、
映画館で話したことによって、ちょっと距離が縮まった……そんなところでしょう。

躊躇するのか、どうなのか、続きを……って、もう読んだでしょ

気持ちは……

yokanさん、こんばんは!


>二次会に二人で映画館だなんて、良いよね^^
 だんだんと惹かれて行くんだろうな~って、
 もう気になる存在だよね^^

はい、強引に出たと思ったら、ちょっと離れてみたり、
蓮の色々な出方に、気持ちを動かされていく敦子です。

気になりだした心の行方が、どう転がるのか、
さらに続きを、お待ち下さいませ。