26 噂のひとり歩き 【26-3】

『BEANS』と『アカデミックスポーツ』の間にある道路に、

今日もトラックやタクシー、そして乗用車が走っていく。

『Sビル』から出てきた岳と敦は、無言のまま横断歩道の前に立った。

敦はその場所から振り返り、『Sビル』の3階を見る。


「結局、宮崎さんの奮闘は、無駄になったのか」


敦の嘆きを聞いた岳だったが、何も答えないまま立っていた。

それは違うとも、そうだとも言えない空気だけが、そこに存在する。


「入社してからずっと、みんなが納得できるように、賃貸契約を精一杯延ばそうと、
本当に、頑張って、あれこれしていたのに……」


岳は、無言を続けていたものの、敦の話に興味がないわけではなかった。

あずさが相原家に来てからのことが、あれこれ浮かび上がり、

それを思い返すだけで、精一杯になってしまう。


『アカデミックスポーツ』の抱えていた状況など、何も知らない初出勤の日、

なんとか立ち退きの期限を延ばそうと、『肩揉み』の提案をしてきたこと。

毎日、岳の行動に付き添い、時には意見がぶつかり言いあいになったこともあった。

逸美に背中を押され、階段から落ちた怪我で、途中までとなったが、

『肩揉み』という行動の予想以上の効果は、岳自身にも感じ取れるほどだった。

それでもあずさは満足せずに、さらなる期限延長のために、

自分の給料から空いているスタジオ代金を払い、

入居者たちが、『Sビル』に別れを告げられる日を、確保してきた。

それまでのいきさつに意地を張り、斜に構えていた村田も、

あの『リラクションルーム』で嬉しそうにトランペットを吹き、

それに拍手を送る、借主と自分たちには、

それまでのいざこざなどどこに消えたのかと思えるくらい、一体感があった。


しかし、一番、嬉しい顔をしてその場にいるはずだったあずさだけが、

そこにいることが出来ないまま、さらに厳しい状態になろうとしている。



『みなさんに支えられて、私もここにいます。だから、自分だけ損をしているなんて、
思ったことはありません』



岳は、車の中でそういったあずさのことを考えた。


「『ザナーム』か……。合理的な経営で伸びてきたところだし、
今までのようなアットホームな雰囲気は、『アカデミックスポーツ』から、
なくなりそうだな」


敦がそうつぶやくと、信号は青に代わり、岳は一歩を出した。





「ごめんね、夏子さん、お母さん」

「あずさ……」


あずさは明日、東京に戻ると言うと、妙な噂を立てられていることについて、

あらためて謝罪した。美佐は、悪いことをしていないのだから、

正々堂々としていればいいと、下を向くあずさを励ます。


「そうだよあずさ。玉子さんもね、いつも言っていた。
たとえ貧乏な暮らしをしても、人のものを盗んだり、人を騙したり、
そういうことをしていないのなら、正々堂々と暮らしなさいって」


夏子は、あずさがどういう人なのかわかってくれたら、噂も自然と消えると、

そう自信満々に言い切った。


「そうそう、人の噂もなんだっけ……
適当な日がくれば終わるってことわざあったよね」


美佐は、あずさはあずさらしく生きなさいとそう言うと、

心配そうに頷く娘の体を、そっと抱きしめた。



その日の夜、あずさは明日、東京に戻るため早めにベッドへ入った。

『悪いことをしていないのなら大丈夫だ』と言われ、

自分でも堂々としているべきだと思うのに、地元のジムで一緒に働いてきた人たちから、

疑いの眼差しを向けられていたのかと思うと、

情けなさと悔しさに、眠りはなかなか訪れてくれない。



『……だから清水さん』



あずさが、責任者である江原の使いこみについて、

知っているのではないかと言った雅臣は、こちらで働いていた当時、

あずさにとって頼れる先輩だった。

仕事を頑張る姿に、人として惹かれていたことは間違いないし、

一緒に話をしているだけで、時間が早く過ぎて行く感覚も持っていた。

しかし、今思えば、学生時代、先輩の祐に感じていたような、

ときめきや期待感とは違う感情だったのではないかと、ここのところ思うようになる。



『岳さん……』



玉子の容態がよくないと言われ、車を出してくれた岳に対して、

ただ間に合ったのだということを伝えたくて、

あずさはあの日、病室を飛び出し駐車場に戻った。

玉子が手を握ったという事実を、どうしても岳に伝えたくて、

まだ残っていて欲しいと思い、車を探した。

缶コーヒーを片手に持った岳が、緊張した顔から少しだけほっとした優しい顔を見せ、

あずさを抱きしめてくれたとき、思いがけない行動だと驚いたのはほんの一瞬で、

訪れたぬくもりに、ただ、身を任せていた。

時間としては何秒と数えられるくらいだったけれど、

それだけで互いに言いたいことが伝わったような、そんな時間だった。

相手の呼吸を、相手の香りを、その場で感じること。

あの時のあずさは、当たり前の感覚として、岳を受け入れていた。

あの数秒が、数分になっても、

あずさは黙って受け入れ続けることが出来たのではないかと、そう思う。



『おはようございます……清水さん』



旅行での出来事は申し訳ないと思い、次に雅臣と会ったとき、

あずさは謝ったつもりだったが、

かけられた言葉は『ふざけるな』というキツイものだった。

それから雅臣が、あずさと視線を合わせることはないまま、

突然、『東京行き』の異動が決まった。

漠然と、あの東京行きは、

むしろ雅臣とのいざこざが、関係しているのではと思っていたあずさにとって、

予想外の展開ばかりが、周りで起きている。

あずさはベッドから起き上がると、カーテンを開ける。

空に輝く月の光りが、どこまで届いているのかと、しばらく静かな夜を見続けた。





『東京』

あずさが戻ってきたのは、玉子の状態を聞き、慌てて戻ってから10日後のことだった。

迷惑をかけた会社の人たちに会うこと、

時間を作ってくれた岳や敦にお礼を言うことなど、

やらなければならないことはいくつもあったが、

あずさの足は、そのまま『横浜』へと向かう。



『青の家』



あずさは、玉子の葬儀が終わったことを庄吉に話すため、

約束はしていなかったが、一番最初に向かうことにした。



【26-4】



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