27 氷の男 【27-2】

「ありがとう、東子ちゃん。でも、ここが……」


『けじめ』という言葉を使うつもりだったが、あずさは声が出なくなった。

けじめというより、『限界』という言葉の方が、ふさわしい気がしてしまう。


「『ザナーム』は、東京の本社が府川にあるだろう。
『アカデミックスポーツ』よりも、この家に近いけれど……」


岳の言葉に、あずさは顔をあげた。

いつもの食卓と、いつもの時間。そう思っているはずなのに、

視線を合わせていることが出来なくなる。


「はい。でも、決めたことですから。東京に出てきた以上、
きちんと自分で生活をしてみたいです。そのチャンスだと思いますし」


一度、気持ちに気付いてしまうと、感情はさらにさらにとあずさを押し出そうとした。

岳の表情を見ているだけで、心臓がコトンと音を立てる。

それは、祐に似ているという感情を持っていた日とは、明らかに違う高鳴りだった。


「……寂しいな」


東子は、心の底からそう言うと、ため息をついた。

少し離れた場所で見ていた滝枝も、下を向く。


「遊びにおいで、東子ちゃん。ちゃんと決まったら連絡するから」

「……うん」

「絶対に、約束」


あずさの約束という指きりの仕草に、東子は少し不満そうな顔をしながらも、

しっかりと小指を絡めてくる。

あずさはあらためて席を立つと、『お世話になりました』と頭を下げた。





『アカデミックスポーツ』が、『ザナーム』の経営者に引き継がれることが決まり、

柴田はその打ち合わせなどで忙しくなった。

それでも、ギリギリまでスタジオの貸し出しを続けようと、

あずさたち社員は、順番で遅番を引き受ける。


「あれ? これはもういいじゃないの、宮崎さん」


今日は、あずさがスタジオを借りる日だったため、鍵を持つ。


「いえ、今日もお借りします」

「でも……」


小原は、もう期限を延ばすこともないのだから、給料から抜く必要もないと、

そう提案する。


「自分があの場所に行きたいんです。このビルがなくなったら、
クラリネットを思い切り吹ける場所、
これから見つけられるかどうかもわからないですし」


あずさは、アパートなどに住んだら、まず吹くことが出来なくなると、そう話す。


「そう……それならいいけれど」


小原はカレンダーの日付が進むのを見ながら、ため息をつく。


「一応、大丈夫だって言われているけれど、
『ザナーム』になってからも、本当に私たち仕事をさせてもらえるのかしら……」


小原のつぶやきに、ほたるは『実は私も……』と不安な気持ちを吐き出していく。


「『ザナーム』の中に入って仕事が出来るのかって、私もそう思っていました。
研修開始と言われている日が近付くにつれて、不安というか」

「そうでしょ……」


小原とほたるは、顔を見合わせて大きく息を吐く。


「小原さん、ほたるちゃん、頑張りましょう。
社長が『アカデミックスポーツ』を残すために、決断をしてくれたことです。
私たちが仕事を手放したら、それこそ、社長の思いを引き継ぐ人がいなくなります」


あずさは、わからないから不安もあるけれど、入り込めばどうにかなるのではと、

懸命に明るく振舞っていく。


「そうよね……」


小原は、ここで沈んでいたらダメよねと言いながら、伝票をファイルにまとめ、

それをダンボールに詰めだした。





結局、今日もスタジオを借りたあずさは一人、

『リラクションルーム』でクラリネットを吹いた。

小原には、前向きな言葉を話したが、実際、元の職場でたてられた噂のこともあり、

今までと同じような気持ちで働けるのかと、不安な気持ちは一番持っていた。

それでも、前に進むしかないと思い、楽譜を追い続ける。

すると、あずさのクラリネットに、トランペットの音が重なりだした。

あずさはすぐに振り返る。


「よぉ……」

「村田さん」


3月いっぱいで店をたたむと決めた村田が、久しぶりに顔を出した。

トランペットを右手に持ち、あずさの前まで歩いてくる。


「今回は、残念だったね」

「はい……」


村田は、『コンサート』の日のことを話し、

それでも、別れに間に合ったのならよかったと言った。

あずさは、玉子が幸せそうな顔で旅立ったことを、村田に話す。


「そうか。そういう顔をしていたのなら、
お別れが出来たと、思ってくれたのだろうね」


村田は、3月でビルを出るために、

荷物などを引き取ってくれる同業者などに会っていたと、数日間のことを語る。


「『アカデミックスポーツ』も、大変だったけれど、
でも、みんな文句など誰も言わないよ。社長がギリギリまで頑張っていたし、
最後に別れをきちんとさせてもらったし」

「ありがとうございます」


村田は、自分のトランペットを見つめる。


「こいつをまた吹くことが出来るとも、思っていなかったしな」


あずさは、『ミドルバンド』と、これからも演奏をするのかと、そう村田に尋ねる。

村田は、これを機会に田舎に戻るため、それはないと否定した。


「田舎に?」

「うん……」


村田は、それでも後ろ向きな選択ではないと、あずさに微笑んでくれる。


「東京のように忙しい場所ではないから、また、こいつを吹くときもあるはずだ」


村田の言葉に、あずさは『はい』と返事をする。

カチャンと扉の動く音がしたため、あずさが視線を向けると、

そこに立っていたのは、岳だった。

村田は『こんばんは』と頭を下げる。


「こんばんは」


岳の手にあったのは、クラリネットではなく、重なった数枚の紙だった。



【27-3】



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