27 氷の男 【27-3】

岳は二人のそばに近付くと、あずさの前にその紙の束を置く。


「これは……」

「これは、『Sビル』を建て直しするにあたっての、新しい計画書だ。
以前からあったものに、少し修正を加えている」


渡された紙を、とりあえずあずさはめくりながら見るものの、

数字と図面が並んでいるだけで、何を目的に見せられているのかわからずに、

何度か岳の表情を見る。


「耐震性を考えて、今よりも少しビルは小さくなる。
ただ、揺れを吸収する設備を備えて、少し空間を作ることが決まっていたので、
今回……」


岳があるページの場所を指で示す。


「『リラクションルーム』よりも規模は小さいけれど、
次のビルにも『防音』を残すことにした」

「エ……」


あずさは、思いがけない岳の提案に、本当ですかと顔をあげる。


「あぁ……正式に会議に通してから決定だけれど、任されているところだから、
間違いないと思う」


岳の言葉に、そばにいた村田も、少し笑みを見せる。


「それなら、また『ミドルバンド』のみなさんや、高校生たちのバンドも、
この場所で、新しいスタジオを、借りることが出来るのですね」

「うん」


あずさはそれはよかったと、用紙に書かれている図を懸命に見る。

専門用語があり、何がどう書いてあるのかなどわからないが、

ここに出来るという岳の言葉を信じ、『アカデミックスポーツ』の小さな足跡を、

残せる気がして嬉しくなった。


「宮崎さん」

「はい」

「あんたはすごいな」


村田はそういうと、照れくさそうに笑う。

あずさは言葉の意味がわからず、とりあえず村田を見る。


「こんな大手の社員と、ここにいる俺のような偏屈なおじさんと、
両方の気持ちを動かすなんて。そう簡単に出来ることじゃない」


村田はそういうと、『なぁ』と岳を見る。

岳は小さく頷くと、あずさのそばに座った。


「村田さん。ここでまた、トランペットを吹いてください」


岳の言葉に、村田は首を振る。


「いや……俺はこの機会に引かせてもらうよ。これからはまた、若い人たちが、
新しい『Sビル』の歴史を作ってくれたら、それで満足だ」


村田はそういうと、二人の邪魔をしてはいけないと思ったのか、

ビルを出るときには、また挨拶に行くよと、『リラクションルーム』を出て行ってしまう。

静かな部屋には、あずさと岳だけが残される。

あずさは、壁にかかる時計を見た。

スタジオを借りている時間は、あと1時間。

その時間が早く過ぎて欲しいような、このまま並んで座っていたいような、

複雑な思いを重ねていく。


「『ザナーム』との交渉は、きちんと出来ているのか」

「……はい。柴田社長が、私たちのことも頼んでくれたようで、
3月の末から研修をして、それで仕事が出来ると」

「待遇は?」

「同じだと聞いています」

「だと聞いています? どうしてそんなふうに言える……自分のことだろう」


岳は、『ザナーム』という会社は、合理主義の企業として、急成長していることを話す。


「急成長ですか」

「そうだ。異業種ともタッグを組んで、色々な商品を展開している。
通販業界でも、今、存在感を出してきているし。
よくいえば先を読めると言うのかもしれないが、悪く言えば、情はない」


岳はそういうと、あずさを見る。

あずさは、岳の視線があまりにも近い気がして、思わず立ち上がった。

見られているという視線の角度に、耐え切れなくなり、自分から避けていく。


「大丈夫ですよ、柴田社長が話してくれたのですから。
『アカデミックスポーツ』の名前はこれからも残りますし、私たちの仕事は、
これからも同じようなものだと……」

「それは書面にしてもらったのか」


岳は、今のうちにしっかりしておかないと、柴田社長が完全に撤退してからでは、

何も出来なくなると心配する。


「企業は自分が損をすることなどしない。さらに、急成長している企業だ。
どういうことが起こるか」

「それはそうですけれど」

「……待った方がいい」


あずさは『何を待つのか』と岳に聞き返した。


「何を待つのかって、わからないのか」

「……はい」


岳は、あまりにもあっさりと答えたあずさの顔を見る。


「まぁ、いい。ようするに、会社のことがあるのだから、
無理に引っ越しをしなくても、仕事が落ち着いてから部屋を探せばいいのではと、
そう言いたかった」


岳は、引っ越しも仕事替えもいっぺんでは、精神的に大変ではないかと提案した。

あずさは、『それならば大丈夫です』と何度も繰り返しながら、

自分に余裕がある間に、全てを終わらせておいた方がいいと思っていることを、

岳に話す。


「正式に働き出したら、また色々と動くことが面倒になってしまうかもしれません。
いまだ、ここだって時に、こなしておきたいんです」


あずさは、そう言いながらも、岳が自分のことを心配してくれていることがわかり、

引っ越しの延長という申し出に『はい』と言いそうになってしまう。

岳にとって、どれほどの思いがそこにあるのかわからないが、

あずさはさらに数歩進み、距離を開ける。


「今です……」


あずさは、本音を隠しながらそう言うと、タイミングがあるのだから、

3月で相原家を出て行くとそう話す。


「これ以上、お世話になっていたら……ダメです」


あずさは、揺れそうになる自分の心に向かって、そう言った。

岳がいくら自分を心配してくれても、それに甘えてはいけないこと、

気持ちを向けてしまったら、最後に傷つくのは自分だと、そう思いながら息を吐く。


「うちにいづらくなるような、理由でもあるのか」


岳はそういうと、あずさの方を見る。

あずさは、自分の戸惑いに、岳は何も気付いていないのだとわかり、

よかったと思う反面、少しだけ切なくもなる。


「いづらくなる理由は……ないです。でも、引っ越しはここだと思います。
新しい職場に、新しい部屋で……」


あずさは、『ここからが本当の自分の就職です』と、窓の外を見ようとする。

しかし、視線に入り込むのは、その窓に映る岳の姿だった。

気付かれないように、岳の横顔を窓越しに見続ける。


「そうか」

「はい」

「決めるのは宮崎さんだから、もう言わないけれど……絶対に無理をするな」


岳は、背中を向けたままのあずさに、そう声をかける。


「もし、相手が予想外のことを要求したり、
話していた通りのことではない仕事をするように言って来たら、軽く請け負うな」

「……はい」

「普通ならこんなことは言わないけれど、
宮崎さんは、普通の人と、どうもポイントがずれているから」


『ポイントがずれている』という言葉に反応し、あずさは岳を見る。


「心配、してくれているんですよね」

「あぁ……そのつもりだけれど」


あずさは『それならばいいです』とまた窓の外を見る。


「何かあったら、連絡をしてこい」


岳の言葉に、あずさは小さく頷いていく。


「はい。お気持ちは、ありがたく受け取っておきます」


あずさはそういうと、『頑張ります』とガッツポーズをしてみせた。



【27-4】



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