28 東京行きの理由 【28-3】

「今日の逸美さんは、なんだか楽しそうだった」


愁矢は、ビジネスにも興味があるのかと、逸美に問いかける。


「ビジネスに興味があるわけではないの。ただ、お会いしたことがないような人だし、
単純に、どういう仕事なのか考えただけで……。でも、余計なことを言ってしまって、
花輪さん、気を悪くされなかったかしら」


逸美は花輪の鋭い視線を思い出す。


「大丈夫だよ、彼も楽しく飲んでいたし……」


愁也は、自分が兄から受け取ってきた条件の書類が、希望に近かったからだろうと、

そう言いながら、逸美の首筋に口づける。


「まだ……夜景を見ているつもり?」


愁也の言葉に、逸美は回された手を、自分の右手で握り返し、小さく首を振った。



逸美が岳と会ったのは、『桜北大学』の2年生になってからすぐのことだった。

互いに意地を張る性格なことにも気づき、反発しあうことも多かったが、

その分、引き合った時には、より深く信じ合うことが出来た。

駆け引きのような、どこか騙しあいのような、『愛している』の台詞と口づけに、

本音がどこにあるのか、体も心も全てで探り合った。

『いつか必ず終わりが来るだろう』ということは、見えていても見ないふりをした日。

逸美にとって、『青春』と呼べるような時間は、

手のひらからあっという間にこぼれ落ちた。

今、『安定』という未来に導かれる感覚の中に、

『もう一度だけ』あのスリリングな時を呼び戻したいと、ただ、そう思ってしまう。

逸美が恍惚の表情を浮かべながら、唇を軽く動かし声を出した。

強く背中をつかむ手と、止められない吐息の甘さの中に沈み込む。

その突き上げられる感覚に目を閉じている逸美を見ながら、

愁也は開きかけた唇を固く閉じる。


愛しい人の唇から、語られた名前。


逸美が無意識に、しかし、このときだからこそ出したことは間違いなかった。

愁矢は逸美を強く抱きしめ、さらに自分を深く沈ませた。





敦が提案した1週間が過ぎ、また『ザナーム』側の社員が顔を出すことが増えた。

それまでは指示を出す程度だったが、いよいよ本格的な作業になったということなのか、

色々な資料や書類を運び出していく。

それと同時進行に、花輪と3名の社員が一人ずつ面接をすることになった。

場所は本部の中ではなく、わざわざ、駅前にある喫茶店を指定される。


「どうしてわざわざ喫茶店に行くのかな。何を聞かれるのか……」

「うん」


最初に面接をされたのは、一番のベテラン小原だった。

残されたほたるとあずさは、片付けの手伝いをしながら、時計を何度も見てしまう。

特にあずさは、初対面で『……君か』と自分に向かって言った花輪が、

何を聞くつもりなのか、それが心配だった。

呼び出されて15分後、小原が本部に戻ってくる。


「小原さん……」


ほたるは何を聞かれたのかと言おうとしたが、周りの目が気になったため、

『お帰りなさい』と、ただそれだけを送り出した。次は自分の番だと、

喫茶店に向かう。あずさは小原の表情が、それほど暗いものではなかったので、

考え過ぎても仕方がないと気持ちを入れ替える。

やはり15分後にほたるが戻ったため、あずさが最後に面接の場所に向かった。

駅前の喫茶店には、そういえば入ったことがなかった。

大きなくまのぬいぐるみが、出窓に飾ってあることしか知らないが、

扉を開けると、一番奥に花輪がいるのが見える。あずさはすぐに目の前まで進んだ。


「どうぞ」

「はい」


席に着くと、出されたメニューの中から『レモンティー』を注文する。

花輪はそれまでなにやら書いていた手帳を、あずさの前でパタンと閉じた。


「宮崎あずささん……ですよね」

「はい」

「この先も、『ザナーム』で働いていただけると言うことで、よろしいですか」


花輪の淡々とした、機械的とも言える聞き方に、少し戸惑いながらも、

あずさは『はい』と返事をする。


「そうですか……それでは、一つ、お伺いします」


花輪はそういうと、あずさに『理由を教えてください』とそう言い出した。

あずさは当然、『何がでしょうか』と聞き返す。


「宮崎さんが、群馬のジムから東京の本部に異動となった理由です」


花輪は、そういうとあずさの言葉を待っているのか、黙ってしまう。


「それは……」


あずさにとっても、改めて聞かれると、答えられない質問だった。

ジムの同僚として勤務していた雅臣と、旅行の件ですれ違い、

居づらくなったタイミングだったこともあり、

『理由』をハッキリと聞いたことがなかった。


「すみません、私は東京にと言われて、ただ……」

「誰から」

「……江原さんだと」

「江原さんから東京と言われただけ、理由も聞いていない」

「はい」

「本当にですか?」


花輪は、あずさの答えに重なるくらいの勢いで立て続けに質問をぶつけ、

最後には厳しい目を向ける。


「群馬のジムのみなさんから、お聞きしたことがありまして」


あずさは、玉子のことで実家に戻ったとき、同僚だった由貴から聞いたことを思い出す。


「責任者だった江原さんの持ち逃げ事件に、実はからんでいると言うことは……」

「それはありません」


あずさは、やはりこのことだったのかと、花輪を見た。

花輪は、あずさがすぐに反応してきたことに対して、『はやいですね』と、

嫌みとも取れる台詞をぶつけてくる。


「実家に戻ったときに、そういう噂が立っているということは知りました。
なぜ、そんなことになったのか、私の方が聞きたいくらいです。
江原さんのお金の話も全く知りませんでしたし、その私が、事件に関係するなんて、
どうしてそんなでたらめが出てくるのか……」


あずさは、今まで誰にも言えなかったこともあり、花輪に対して必死に訴えた。

自分は東京に来ることを望んだこともないが、

仕事を辞めてしまう選択肢はなかったので、こういうことになっていると、

あらためて説明する。


「宮崎さん自身は聞いていなくても、
どこかで巻き込まれているということはないですか?
そうでもなければ、あなたが転勤になる理由が、わからない」


花輪は、柴田社長に聞けば、教えてくれるだろうかとまた手帳を開く。


「そうしてください。私も、妙な噂を立てられたままでは困ります。
実際、実家の家族も、困っていると聞きましたし」

「『ザナーム』の通販事業を行っている通信部が、『岸田』にあります。
宮崎さんには、そこで勤務をしていただこうかなと、思っておりまして……」


あずさは、『ザナーム』の本社がある府川ではないことを聞き、

思わず『エ……』と声をあげてしまう。


「現在のお住まいは、どちらですか。『岸田』まで遠いでしょうか」


花輪は、通販は今も『ザナーム』の中心だと、そう説明する。


「『アカデミックスポーツ』に携われるのかと、正直思っていたので」


あずさは、精一杯冷静な口調で、そう言った。



【28-4】



コメント、拍手、ランクポチなど、お待ちしています。(@゚ー゚@)ノヨロシクネ♪

コメント

非公開コメント