30 女性の末席 【30-3】

時計はさらに針を進め、午後6時を過ぎた。

岳は病院の玄関前に出ると、本社に連絡を入れる。


「はい、ちょうどそのタイミングで、ここに……」


岳が目の前で見た事故により、現場の職人5名が救急車で病院に運ばれた。

2人は怪我の処置だけして、帰ってもいいと許可をもらったが、

3人はすぐに入院が決まり、その中でも横になってしまった機械の下に入った1人が、

『重傷』との診察結果をもらってしまう。


「とりあえず、警察にも来てもらいました。現場監督も残っていまして」


岳は、本社にいる役員に状況を語り、こちらが落ち着いたら戻ることを告げた。

そして電話を切ると、すぐにまた動き出す。

事故を見てからの岳は、今日がどういう日なのか、なぜここにいるのか、

この後誰と約束があったのか、そんなことも頭からすっかり消えていた。

入院した職人の家族を待ち、警察に対しての対応など、

岳が目の前の状況を『落ち着いた』と判断できたのは、

日もすっかり沈み、道を歩く人も減った夜の8時前になる。

建設途中の事故であるため、すぐに工事は再開できない。

となると、仕事のスケジュールがあちこちずれ込んでくる。

そんなことを考えながら本社に戻っていたとき、岳の電話が鳴り出した。

相手を見ると梨那だとわかる。

その瞬間、岳は初めて今日がどういう日だったのか、気付くことになった。

車が停められる場所を選び、梨那にかけ直す。

数度の呼び出しがあった後、梨那の声が聞こえた。


「梨那……ごめん。今」

『何しているの? 岳。何時だと思っているのよ』


梨那の口調は明らかに怒っていて、今、店にいると話す。


「申し訳ない、現場でトラブルがあって……」

『トラブル? そんなこと理由にならないわ……全然連絡もないし。
私がどれだけ惨めだと思う? 楽しみにしていた誕生日なのに、一人で』


梨那はそういうと、すぐにここへ来てと岳に告げる。


「それは無理だ。今、本社にはいない。これから戻っても……」

『この店から、一人で食事をして、一人で出ていけということ?』


梨那は、いつも使っている店だから、みっともないところは見せたくないと、

そう愚痴を言う。岳の言葉が途中であることもわかって、梨那は通話を切ってしまった。

岳は、あらためて電話をかけるが、梨那は何度かけなおしても出ることがなく、

仕方なくまた、車を走らせることにする。



『誕生日』



梨那がこの日を心待ちにしていたことは、岳もよくわかっていた。

仕事が思うようにいかなかった日々が続き、どこか今までと違うことがしたくなり、

『クラリネット』の練習など、『現実』から逃げたような日々を送っていた。

すれ違っている状態なことにも気付いていたため、食事の予約も岳自身が入れた。



『一人で出ていけということ?』



岳の複雑な気持ちとは違い、道路は思っていたよりもすいていた。

本社に戻り、事故を知った武彦や役員達のところに向かい、

自分が見てきたことをそのまま語る。


「入院して重傷だと言われた作業員も意識はありますし、家族とも会話が出来ました。
幸い、一般の人にも、他の物件も被害はありませんでしたので、
警察も、条件が整えば、工事は再開できるのではと」


武彦は、すでに対応担当者をつけたので、これからは任せて欲しいと岳に話す。


「お前も思いがけないことに疲れただろう。今日は仕事を切り上げて帰りなさい」


岳は、集まっていたメンバーに頭を下げると、社長室を出た。

エレベーターに乗り、廊下を歩き、岳は経営企画にある自分の席に戻ると、

とりあえず大きく息を吐く。

静かな空間の中にいると、事故の瞬間の、ざわついた緊張感が蘇ってきた。

今まで何度も、自分たちが企画したマンションの工事現場に、足を運んだことがあった。

責任者の説明を受け、順調に流れている光景を見て、

図面が立体になるのを目の当たりにしながら、次はどういうものを作ろうかなど、

さらなる空想図を描いたりもした。

しかし今日、岳が見た現場は、修羅場そのものだった。

うめき声や、怒鳴り声、流れる血と、野次馬の声。

自分たちの思いを形にするには、一人一人の汗と確実な仕事があってこそだと、

あらためて思い知らされる。それと同時に、自分たちが組み立てたスケジュールは、

今まで、現場の人間に無理を押し付けていなかっただろうかと、不安にもなった。

あの事故から、時間がどう流れていたのか、思い出せないくらい岳は精一杯だった。

それでも発見が早く、現場も思っていたよりも落ちついた対応を見せてくれたため、

今、こうしてここにいることが出来る。

亡くなった母が愛した故郷の、街づくりに参加していくための計画もまた、

人の手が、人の足が、一つずつを作り上げていく。

岳は疲れきった体と反比例に、頭の中だけはどこかせわしなく動いていた。

予定表につけていた印を見る。それは今日が梨那の誕生日という意味だった。


『トラブル? そんなこと理由にならないわ……全然連絡もないし。
私がどれだけ惨めだと思う? 楽しみにしていた誕生日なのに、一人で』


岳は、自分が唯一、全てを出せるのは仕事だと長い間そう思ってきた。

先へ進むことのない日々の中、梨那と知り合った。

『三国屋』を経営する父親を持ち、3姉妹の末っ子という、

『甘えること』『愛されるコツ』を知っているその仕草に、

愛想のない自分を、懸命に見つめてくれる目と声に、

男としての優越感も、感じることが出来た。

『BEANS』を外すことの出来ない自分でも、それ同等、それ以上の看板を持つ梨那なら、

息苦しさも感じずに済むと、そう考えてきた。



『青木梨那』



落ち着いた今ならと思い、岳はもう一度電話をかけてみる。

車の中からかけたことを含めれば、少なくとも5回くらいにはなるはずだが、

今回も梨那が声を出すことはなかった。

岳は日をかえてかけるしかないだろうと思い、携帯をデスクに置く。

首を少し動かしながら、登録されている人の名前をスクロールした。



『宮崎あずさ』



あずさの名前を見たとき、岳は自分が『岸田』になぜ向かったのかを思い出す。

時刻はすでに夜の9時を回っていて、もうじき10時になろうとしている。

岳があずさの番号に電話をかけると、数度の呼び出し音が鳴り、

あずさの声が聴こえた。


『はい……』

「俺……だけど」


あずさは『はい』と答えると、何かあったのかと岳に聞いた。

岳は今日は突然顔を出してしまって、申し訳なかったとそう話す。


『ちょっと驚きました、でも、大丈夫です』


あずさはそういうと、まだ『岸田』の建設現場にいるのかと、そう言った。


「いや……今は本社なんだ」


あずさに話しても仕方がないことだと思いつつも、

静と動に別れてしまっている体と心が、自然と事故の説明を入れてしまう。

作業員が落ちてきた金属の棒に押されてしまい、

段差のあるところから落ちてしまったこと、偏った重みに動いた機械の下に、

挟まれた人が出たこと。病院に運ばれたのは5名で、そのうち3名が入院になったこと。

気付くと流れてきた時間の全てを、あずさに伝えていた。



【30-4】



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コメント

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あけまして……です

拍手コメントさん、こんばんは
ごめんなさい、コメントに気付くのが、ものすごく遅い私(笑)

こちらこそ、今年もよろしくお願いします。
マイペースに書き続けますので、お気楽にお付き合いくださいね。