30 女性の末席 【30-5】

「怪我……ないですね」


あずさは、ほっとしたようにそういうと、コップに水を入れ、少しだけ飲んだ。

その行動が、いかにも付け加えた動作に思え、岳は笑ってしまう。


「電話で、怪我はしていないと言っただろ」

「……そうですけど」


岳は、あずさが自分のことを気にして、待っていたのだとわかり、

事故のことを言わなければよかったなと、そう言った。

あずさは『いいえ』と首を振ると、

安心したのか『おやすみなさい』と前を通ろうとする。


「なぁ……」

「はい」

「1分でいい。肩を揉んでもらえないか」


岳はそういうと、あずさを見る。

あずさは『はい』と答えると、岳の後ろに回った。

上着を脱いだ岳の肩に、あずさの両手が触れる。

指が動き、そこからしばらく静かな時間が訪れた。

言葉がなくても、岳がどうして欲しいのか、あずさにはしっかりと伝わったし、

あずさが何をしようとしているのか、岳にもそれがよくわかった。

1分は、あっという間に過ぎていくが、あずさは動きを止めようとしない。


「ありがとう、もう1分経った」

「もう少し、大丈夫です」


予想外の出来事に疲れてきた岳を思い、あずさはこんなことでいいのなら、

朝まででもと本気でそう思っていた。仕事のことなど何もわからないし、

手伝うことも出来ないが、肩もみをしているときだけは、『役に立っている』と、

自分自身、感じることが出来た。

岳を意識するようになってからは、目が合うことも気恥ずかしくなるのに、

『肩を揉む』という行為がそこにあれば、こうして冷静にいることも出来た。

両肩を押すあずさの左手に、岳の右手が触れる。


「……行くな」


あずさの手は、その言葉にストップしてしまう。


「どこにも行くな……この家に……」


あずさはその先を聞いてはいけないと、自分で両手を肩から離してしまう。

岳の右手から、あずさの手の感覚が消える。


「少し、疲れました……今日は、これで」


あずさはそういうと、岳の顔を見ないまま、階段を上がってしまう。

岳は、自分の発言が、あずさを困らせたのだと思い、その姿を見ないままにする。

扉を閉める音が聞こえ、思いがけない二人の時間は終わった。



『行くな……』



岳もあずさも、互いにこのセリフを思い返しながら、

その日はあまり眠れない夜になった。

特にあずさは、自分の反応はあれでよかったのかと、自問自答を繰り返してしまう。

『BEANS』という大きな会社の跡取りが、『相原岳』なのだと、

心の中で何度も繰り返す。玉子がいたからこそ、相原家に世話になれたが、

その縁も終わり、ここを離れていく今、

後ろ髪をひかれるようなことがあってはならないと、布団を深く被る。

岳の右手が、自分の左手に触れたとき、確かに驚きはあったが、

その数倍、嬉しさもあった。

『どこにも行くな』というセリフが、あずさ自身を認めてくれた気がしたが、

そう思うと、どうしてあんな反応しか出来なかったのかと、今度は悔しくなる。

喉が渇いたというのは全くの付け足しで、本当は岳の姿を見るまで、

安心できなかったから起きていた。岳にも少なからずそれが伝わり、

心の中にあった思いが、ふっと前に出てきた。

あずさは、さらに岳と顔をあわせにくくなってしまったと、

真っ暗な布団の中で、何度も後悔をし続ける。



あと数日……

早く過ぎて欲しいような、永遠に来て欲しくないような、

あずさはそんな複雑な思いを抱え、ただ目を閉じた。



静かな岳の部屋でも、壁にかけた時計が日付を変えた。

『岸田』へ行くことがなければ、事故にも遭遇しなかったし、

毎年そうだったように、梨那と誕生日を祝い、一緒に過ごしていたはずだった。

予想外の出来事が色々と重なっているうちに、岳は究極の本音を口にしていた。

『岸田』に向かったのも、あずさが気になっていたからだし、

こうしてタクシーを使って戻ってきたのも、あずさがそう提案してくれたからだった。

起きているとは思っていなかったが、たとえ暗くなっていても、

母の思い出の部屋に、あずさがいるということだけで、

岳は、心を落ち着かせることが出来ると、そう思いながら戻ってきた。

食事もろくに取れず、定まった場所もなかった1日の最後に、

あずさの肩もみを希望したのも、自分自身の気持ちがあったからだった。

触れているだけで、ただ、そこにいてくれるだけで、

明日もまた、必ず新しい日がめぐってくると、そう思うことが出来た。

しかし、自分の本音に対し、あずさはすぐに手を引き、階段を上がって行った。

岳は、自分があずさから感じた思いは、ただの独りよがりだったのかと考える。

あずさの楽しそうに笑う姿を思い出し、岳は自分の手で両方の目を覆った。





「おはよう」

「おはようございます」


あずさは、黙々と朝食を終えると、

昨日よりさらに早く、『岸田』に向かって出発した。

岳も、そのぎこちなさを感じながら、食事を終える。


「ねぇ、岳」


東子は、今週の土曜日は、あずさがここで食べる最後の食事だから、

敦にも来てくれるように頼んだとそう言った。


「敦に……」

「そう。これからも、もちろん遊びに来てって言うつもりだけれど、
あずさちゃんの性格からすると、そう簡単に来てくれそうもないでしょ」


東子は、昨日の岳とあずさのいきさつを知らないため、

土曜日だけは早く戻ってきてねと、念を押す。

岳は、『わかった』と頷くと、一度部屋へ戻った。





『中村流』の展示準備の最終日。しかし、担当だと聞いた梨那の姿はない。

逸美は、挨拶に来てくれた別の担当者に、梨那はどうしたのかと尋ねた。


「あ……すみません、ちょっと体調がすぐれないと連絡が入りまして……」


担当者は、言葉を濁すような言い方で、その場を納めようとしていた。

逸美は、昨日の浮かれ具合から、すぐに体調が悪くなったというのもおかしいし、

どこか奥歯に物の挟まったような言い方をする社員の態度から、

『やはり』の思いが強くなる。



『あなたも、彼に愛されてはいない』



逸美は、『それなら仕方がないですね』と言い、張り出された作品を、

もう少し上の位置にして欲しいと、指示を出した。





【ももんたのひとりごと】

『脇役の存在』

楽しいなと思うドラマは、『脇役』の存在が大きい気がします。
どこか愛嬌があって、時々とんでもないことを言うけれど、でも、
それが主人公たちの代弁だったりして……。『アカデミックスポーツ』の事務、
小原やほたるもそうでしたが、今回もまた京子というキャラが登場しました。
彼女の、『あずさへ向ける言葉』も、ちょっと注目してください。




【31-1】



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