35 悲しみの抵抗 【35-1】

『青木梨那』


岳は会議の休憩時間に、梨那の名前を呼び出した。

誕生日の日の出来事から、ここまで一気に話が動くとは思わず、

何も連絡が取れていない。

『結婚』や『恋愛』にどこか背を向けていた自分が、前に出ていた頃には、

『BEANS』という環境を気にされることもなく、自分を特別視するようなこともない、

逸美や梨那との時間が、楽だと思えた。

学生時代、『自分との交際は経済的に意味がある』という言葉を出した女性の態度に、

それなら面倒なことは最初から避けておこうと、

岳はいつも相手を囲いの中にいる人から選んできた。

満たされる時があればいいと思っていたので、お互いを思いやるとか、

心配するというような部分は、どこかに忘れてしまったのではないかというくらい、

遠いものになっていた。



『岳さん……』



あずさが来てから、忘れていた『クラリネット』を取り出し、

母との約束を、急に実行したくなった。

それは仕事がうまく行かないからだと思っていたが、

実際には、『宮崎あずさ』という人の存在が、大きかったのだと気付く。

梨那との時間が極端に減ったのも、岳自身の気持ちが、動き始めたからだった。



『話しがある』



岳はそこから文章を打ち込むと、梨那あてに送信した。





そんな岳からのメールを受け取った梨那は、かおるに言われた通り、

ここまで我慢してよかったと思っていた。

複雑な岳の心境など知る由もなく、誕生日のやり直しだというくらいにしか、

思っていない。『自分の方が有利』という状況を生かし、

一緒に食事をして、少し高いものでもねだってみようと思いながら、

タクシーに乗って、美容室に向かう。

それでも、岳と会えるという事実に気持ちはどんどん上向きになり、

お気に入りの美容師にお願いし、前髪を整える。

その流れでネイルの店にも立ち寄り、岳と会うために出来ることを、全てやりきった。





「洗濯機を?」

「そうなの。この間、一緒に部屋を見たのが、高校からの友人で」

「へぇ……それなら安心ね」


『フラワーハイツ』に越すことを決めてから、

あずさは友華とランチをすることが増えた。いつもお弁当を持参する友華と違い、

あずさはコンビニばかりだと、袋の中身を見ながら反省する。


「宮崎さんは遠くから来ているのだもの、それだけですごいわよ。
私はラッシュが苦手」

「私も苦手だよ」


友華は、それがあるのでここでパート勤めをしていると、笑う。


「昔から体が強くないから、無理するとすぐに疲れちゃうの。
本当は、宮崎さんみたいに、正社員になって、しっかり仕事をしたいと思うのだけれど」


友華は、あずさの元気な姿が、とってもうらやましいとそう話す。


「そう?」

「うん……宮崎さんと話しをしているだけで、なんだか元気になれる気がするの。
そんなふうに人と接することが出来るのなんて、すごいわよ」


友華の言葉に、あずさはこんな自分のことを『愛しい』と表現した岳のことを考える。


「ありがとう……」


唇が触れた時の感覚を、ふと思い出している自分が恥ずかしく、

あずさは『午後も頑張ろうね』と、友華に明るく声をかけた。





『待たせてごめんなさい』

タクシーに乗る梨那の頭の中には、岳に向けるそんなセリフも浮かんでいた。

待ち合わせ時間より、少し遅れてお店に入るようにしたのは、

岳の姿を、自分が先に確認したかったからだ。


「あぁ……降り出しましたね」


タクシーの運転手は、今日はこのまま降りますよと、後部座席に座る梨那に言った。

梨那は『そうですね』と答えながら、綺麗に整えた自分のネイルを見る。

雨が降ろうが、雪が降ろうが、どちらでもいいというのが本音で、

梨那は、今日は思い切ってわがままを言ってみようと考える。

ホテルの前に到着したタクシーから降りると、携帯で時間を見た。

待ち合わせよりも3分経過した状態に、ほぼ予定通りだとエレベーターを目指す。

目指す階で降り、店の中を見ると、岳はすでに席にいた。

梨那は近付いてきた店員に、あの人と待ち合わせだと、岳を指差し、

そのまままっすぐに進む。


「岳……」


梨那の声に顔をあげた岳は、『うん』と頷いた。

梨那はどこか神妙な姿に見える岳に、

さすがに、誕生日の日のことを気にしているのかと、また気持ちが大きくなる。


「ごめんなさい、少し遅れて」

「いや、いいよ」


梨那は岳の前に座る。

二人が揃ったことに気づいたウエイトレスが、メニューを持って近付いた。

岳はそれを受け取り、何を食べるのかと梨那に聞く。

梨那は同じようにメニューを開くと、魚介類のパスタを選び、

それにメニューをいくつか加えていく。

岳も同じようにオーダーを済ませ、『いつものような食事』は、

そこからスタートした。

梨那は、自分が岳を待たせたという状況に後押しされたのか、

いつもに比べて、『自分自身』を前に押し出した。

誕生日を楽しみにしていたのに、トラブルでダメになったのが辛かったこと、

その後、なかなか連絡をする気持ちにまで、なりきれなかったことなど、

この1ヶ月近くの間に、考えたことを語る。

かおるにアドバイスを受けたように、あくまでも有利なのは自分、

そう思いながらセリフを送り出す。

そして、いつもなら、どこかで不機嫌そうな顔をする岳が、今日は素直に頷き、

自分の気持ちを理解してくれているように思え、梨那の気持ちはさらに上向きになった。


「おねだりしたいものもあったし、一緒にいて欲しいと思う時間もあったのに。
最後まで拒絶されてしまって……」

「うん」


梨那は、それでもこうしてまた岳が自分の前にいてくれることがわかり、

満足だと思いながら、食事を続ける。


「ねぇ、話しがあるって……」


梨那は、もしかしたら『結婚』のことでも、少しは前向きになったのかと、岳を見る。


「うん……」


それまで、穏やかだった岳の表情が、ほんの一瞬、険しく見えた。



【35-2】



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