35 悲しみの抵抗 【35-2】

梨那は、その一瞬の変化に、さらに聞きだそうという気持ちが起きなくなってしまう。

たった一瞬の表情なのに、言いすぎたのではないか、方向を誤ったのではないかと、

急に自信が無くなってしまった。二人の前に、食後のコーヒーが届く。

梨那は、やはりこれ以上わがままなど言わずに、とりあえずこの後二人で部屋に向かい、

ゆっくり出来たらそれでいいと、気持ちを切り替える。


「ねぇ、岳……そろそろ出ない?」

「梨那……」

「何?」

「話しがあるって、言っただろ」


岳はそういうと、梨那を見る。


「何? そんな深刻な顔をしないとならない話? なんだか」

「まどろっこしい言い方は、誤解を生むと困るからしたくない」


岳はそういうと、『別れて欲しい』と切り出した。

梨那は、想像もしていなかったセリフに、言葉はおろか、文字すら頭に浮かばない。

一瞬で表情がこわばり、顔の神経全てが固まってしまったように、動かなくなる。


「何? 別れって、どういう……」

「どんな言い方をしても、うまくは伝わらない気がする。だから言い訳はしたくない。
『好きな人がいる』それだけしか、言えない」


梨那は、嫌だという叫びも、何を言っているのかという声も出ていかなかった。

何が起きているのか、どうしてそんなことを言われるのか、

ヒントのかけらすら、見えてこない。

ただ、『好きな人』と言われて、梨那が思い浮かべてしまうのは、逸美のことだった。


「あの人? 好きな人って、あの人なの」


梨那は、逸美のことをまだ思うのかと、岳に尋ねた。

岳はそれは違うと首を振る。


「違う……」

「違うって……だったら、誰なの?」


梨那は、今までだって、岳がそれなりに色々な人と付き合いがあったことも知っていると、

自分は全てわかったうえで認めてきたと、必死に訴えた。

岳は、確かにそういう面はあったかもしれないと、頷いていく。


「私が結婚の話しをしたから? だから気に入らないの? だって……」


梨那は、今までの余裕の表情から一転し、言葉がまとまらなくなる。


「違うんだ。自分の考え方が、変わるような出来事がここ数ヶ月の中にあって……」


岳は、今までの自分の価値観とは違うものが見えてきたと、梨那に話す。


「そんな言い方ではわからない。私の何が……」

「梨那がダメだというわけではないんだ」


岳は、そういうことではないのだと、もう一度繰り返す。


「そう……梨那が言うとおり、君と付き合いながら、
中村逸美さんともかつては付き合いがあった。身勝手なことだと言われたら、
何も言い返せない。ただ、当時の感情としては、どちらも自分には必要だと、
そう思っていたのかもしれない」


自分の意見をしっかりと持ち、岳にも屈しないとする逸美と、

あくまでも岳に従い、そばにいようとする梨那の存在。

岳は、両方あって1つだったのではないかと思いながら前を見る。


「今までの俺は、自分のことが常に前にあった。
いや、自分のことしか考えていなかった。気分次第でどちらにもいい顔をして、
どちらにも冷たい態度を取った。あくまでも自分のテリトリーに、
相手を押し込むことしか、考えていなかった」


逸美と会う日、梨那と会う日。

岳の都合で決められていた日々。


「本当に身勝手だったと思う。そんな身勝手さに気付いて、彼女は去った。
逸美とは、それからは疑われるようなことは何もない」


岳は、あらためて自分の惹かれた相手は、逸美ではないことを話す。


「それが、ここ数ヶ月で自分が変わってきた。
いや、もしかしたら、俺が変わったのではなくて……俺が君と逸美に求めたものを、
両方持っている人がいたと言った方が正しいのかもしれない」


岳の言葉に、梨那は、以前『三国屋』に連れて来た女性がいたことを思い出した。

自分が言えないようなことを、岳に対して言っていたこと、

岳自身が、言い返されても突き放すような態度を見せなかったことなど、

あの時、瞬間的に感じた、『女の勘』のようなものが、蘇ってくる。


「その人が今、どうしているのか、何を思い何を見ているのか、
それが気になるようになった。その人の意見を、言葉を聞きたいと、そう……」


岳は、梨那の誕生日の日のことを振り返る。


「梨那の誕生日の日、工事現場のトラブルという思いがけない出来事に、
気持ちが動揺していて。人が目の前で倒れて、病院に運ばれて、
精神的には参っているのに、頭だけは休まらなかった。
その時、君はどうして来てくれなかったのかと、俺に思いをぶつけてきた。
わかっているんだ、自分が計画して、約束した日だし……でも、
梨那……君はトラブルについて、何ひとつ聞いてはくれなかった」

「だって……」


梨那は、あの日、確かに自分が惨めだと必死に訴えたことを思い出す。


「だって……仕事のことに口を出したら、岳が嫌だろうと思っていたし、
ずっとそうしてきたし」

「そう……そうなんだ。君にはいつもそう言ってきた。だから仕方がない。
でも、怪我をした人は大丈夫なのか、そういう俺に怪我はないのか、
疲れているから運転はしないほうがいいと言った人がいた。
怪我はないと言ったのに、それでも心配し続けてくれた。
約束をした日も仕事でダメになったのに、『仕事がうまくいってよかった』と、
彼女は笑ってくれた」


あずさが相原家で過ごす最後の日、食事会に出られなかったと東子は怒った。

しかし、あずさは仕事がうまくいったことを、喜んでくれた。


「あぁ、そうだった。彼女はそんなふうに、他人のことを思う人だったって、
お節介されていることが、心地いいと感じてしまった」


岳は、村田のこと、柴田社長のこと、ミドルバンドのこと、

そして、離れてしまった同僚の小原やほたるのことを、

いつも笑って見送ってきたことを、思い出す。


「人の成功を自分のことのように捉えて、笑える彼女が……
今の自分には、必要な人だと……」


岳は、身勝手な言い分で、申し訳ないと梨那に頭を下げる。

梨那は、あの日、そんな時間が岳に流れていたのだと思い、

今日がリベンジの時間だと、勝手に思っていたことが情けなくなる。


「私と、逸美さんが2人必要だった場所を、その人は1人で……と、
岳はそう言いたいの?」


梨那の言葉に、岳はそういうことかもしれないと、自分の気持ちを振り返る。


「私……その人を、知っている?」


梨那は、岳の方を見る。


「一度だけ……会っていると思う」


梨那は、その相手があの『リクチュール』のスーツを買った人だと、確信する。


「いつから……」


梨那は、消えそうになるような声で、そう尋ねる。


「ハッキリはわからない。1週間くらい前のような気もするし……
もしかしたら、もう半年くらい前なのかもしれない」


『ストレス』だと生活が乱されていた頃から、

実は気持ちが引き寄せられていたのかもしれないと、岳はそう答えを戻す。


「あなたに会えると思って、過ごしてきたのに。
あなたが黙って着いてくる人が好きだと思って、ずっと……そうしてきたのに」


梨那は『納得できない』と岳から目をそらす。

岳は、黙ったまま、コーヒーカップを見続ける。


「何が別れなの。そんなこと、納得できない。認められない」


梨那は、今日1日、自分がこの時のために準備していた時間を振り返り、

情けなくなっていく。


「……今日は、その言葉をここに置いて帰ります」

「雨が降って来ている。送る……」

「いい……今、そんな優しさを受け入れたくない。何も受け入れたくないの」


梨那は立ち上がると、そのまま店を出て行こうとする。

岳は会計を済ませると、その後を追った。



【35-3】



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