37 痛みの深さ 【37-2】

「あら……あらあら」


あずさが仕事を始める頃になると、うっすら赤かった目の上は、

ハッキリとわかるようになった。ハンカチで押さえながら仕事をしていたが、

一緒に遅番担当となっている京子は、その変化に気付き、何があったのかと覗き込む。


「転びました」

「いやいや、そこは転んで怪我をしない場所でしょう」


京子の指摘はなかなか収まらず、あずさはそれでものらりくらりとかわしていく。


「彼とケンカ?」


京子の問いに、あずさはそれが一番面倒ではない気がして、『はい』と答えてしまう。


「あら……まぁ……」


京子はそれはダメねと、両手を組み、そこから考え事をし始めた。





『東青山』の駅についてから、あずさはトイレに駆け込み、自分の目の上を見た。

時間が経ったことで、さらに目の上は赤みが増している。

時間は10時を過ぎているのだから、食事をすることもないし、

このまますぐにお風呂へ入り、部屋へ行ってしまえば誰にも会わずに済むと思うのだが、

朝食のことを考えると、ハンカチで押さえたままでは誤魔化しきれないとそう考える。

一応、ドラッグストアに立ち寄り、眼帯は購入したものの、

それをすれば間違いなく『どうしたのか』聞かれることがわかっているので、

相原家に向かう一歩がなかなか出て行かない。

それでも帰らないわけにはいかず、あずさは横断歩道を渡り、家に向かった。

玄関で靴を脱ぎ、扉を開ける。

そのまま黙って階段を上がろうと思っていたあずさの前に、

リビングで本を読む岳がいた。

慌ててハンカチで目を押さえようとするが、焦っていたため手からすり落ちてしまう。


「ただいま帰りました」

「うん……」


リビングにいる岳の視線は、手に持っている本にある気がしたので、

あずさはハンカチを拾い、そのまま顔を下向きにして階段を上がろうとする。

気付かれなかったと一息つこうとしたとき、あずさの腕を岳がつかむ。


「どうした……目」


岳の言葉に、あずさはやはり気付いてしまったかと振り返る。

ちょっと考え事をしていたら、つまづいてしまって、看板にぶつかったのだと、

その場をのがれるために適当に言葉を並べてしまった。

岳はあずさのハンカチを取り、赤くなっている目の上を見る。


「どこのどういう看板に当たったら、こんな傷になるんだ。
普通、つまずいたら手が先に出るだろう。顔から突っ込んだのか」


岳の鋭い指摘に、やはり適当なセリフでは誤魔化せなかったと、

あずさは言い訳が続かなくなる。


「階段から落とされたときと一緒だな。考えなく適当なことを言うな。すぐにばれる」


あずさは大丈夫ですと言おうとして岳を見るが、強い口調とは違い、

明らかに心配している表情が見えてしまい、何も言えなくなる。


「遅番なのに早く家を出て、あの大家のところにでも行ったのだろう」


岳の言葉に、あずさは素直に頷いた。

やはりという意味のため息が、岳から落ちる。


「辞めろと言っただろ」

「でも……」

「それでこんな怪我を負わされて……。なぁ、あの記事を見ているだろう。
言いがかりなんだ、どうにも出来ない」


岳は明日は黒ずんでくるかもしれないから、病院に行った方がいいとあずさに話す。


「『BEANS』に猪熊さんという方は、いるのですか」

「……どうして」

「富田さんが古い手帳を見せてくれました。赤い手帳だったので、
亡くなった奥さんのものかもしれません。そこに、『BEANS』の猪熊さんって」


あずさはそういうと、ただの言いがかりではないかもしれないと岳に話す。


「なぁ……」

「はい」

「君が気にすることもわかる。でも……」


岳の指が、あずさの傷の場所に触れる。


「少し待ってくれ。一人でこんな行動をしても意味がない」


あずさは岳の指の温度を感じ、小さく頷く。


「猪熊という営業マンはいる。猪熊鉄朗……」

「はい、そうでした。猪熊鉄朗さんって」

「だとしても、猪熊さんが恨まれるようなことをしたことなど、考えられない。
社長も……いや、会長も信頼しているベテランだ。
もう定年間近の人だけれど、俺も新人の頃から世話になった。
猪熊さんが、人を騙すなんてことは……」


岳はそれでも、きちんと聞いてみるからとあずさに話す。

岳は、掴んだ腕を引き、あずさの体を引き寄せた。

あずさは、岳の腕の中に収まってしまう。


「はぁ……。毎日、気が休まらない。
こんなことなら、ずっと肩もみ担当をさせておけばよかった」


岳の言葉に、あずさは自分が迷惑をかけていると思い『すみません』と言葉を返す。


「他人から恨まれることなど、仕事の中で慣れているところもある。
この家に生まれて、正直、うらやましがられることも多かった。
会社に入っても、跡取りだからと、冷ややかな目で見る社員もいる。
そんなものは自分の実力で見返せばいいと、そう思ってきた。今もそう思う……でも……」


あずさを包む、岳の手に少しだけ力が入る。


「君が傷つくのは……自分の痛み以上に気持ちが重くなる。
『BEANS』が、『相原家』がと、俺がそばにいるから、
だからこんなふうに追い込むのかと、そう考えてしまうんだ」



『女を不幸にする男』



岳の脳裏に、逸美が言った言葉が蘇ってくる。


「これ以上……傷つかなくていい……」


岳の言葉に、あずさは顔をあげる。


「傷ついてなんていませんから、大丈夫です」

「強がるな」

「強がっていません。本当の気持ちです……」


こうしてそばにいてくれること、あずさを見てくれていること、

それがあるだけで大丈夫だと、笑顔を見せる。

あずさは岳に抱きしめられた感覚を残したまま、部屋に戻った。



『これ以上……傷つかなくていい……』



あずさはベッドに横になり、岳の言葉を思い返していた。

抱きしめられている時に、間違いなく『幸せ』だとそう思えた。

耕吉にはリモコンを投げられ、強い言葉をぶつけられたのに、

そんな出来事など、どうでもいいと思えるほど、気持ちが高ぶった。

人を好きになったことは、初めてではないけれど、

抱きしめられることに、喜びを感じることが出来るのだと言う事は、

今、初めて得る感情だった。

心配してくれる岳の気持ちに応えるために、

あずさは自然と『抱きしめあう』ことの心地よさを、さらに共有したいと思い始める。

この人なら、何もかもを受け止めてくれるという思いと、

自分自身が受け止めたいという気持ちが、膨らんでいく。

あずさは、今、間違いなく自分は『恋』をしているのだと思いながら、

布団を深く被った。



【37-3】



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