37 痛みの深さ 【37-5】

岳の夕食がそこから始まり、『話したいことがある』と言われたあずさは、

食卓に残ることになる。


「目……昨日よりはいいか」


岳の言葉に、あずさは『はい』と頷く。


「そうか……」


あずさはお茶を飲みながら、岳の食事が進むのを待った。

滝枝は、二人が話しをするのだろうと思ったのか、キッチンから姿を消してしまう。


「猪熊さんから、話しを聞いてきた」

「エ……」

「敦が持ってきた記事の内容も、絡んでいることだけれど、
あの大家の怒りは、ただ、それだけではなかった」


岳の言葉に、あずさは『はい』と返事をする。

それからも岳の食事が終わるまで、あずさは待ち続ける。

そろそろだと思い、湯飲みを取り出すと、あずさが岳のお茶を入れた。


「ありがとう」

「いえ……」


岳はお茶を一口飲むと、猪熊から聞いた話しをし始めた。


「『猪熊鉄朗』という営業マンは、確かに『BEANS』に存在する。
昨日も言ったとおり、会長の時代からうちに勤めていて、父も世話になったし、
俺も、新人の頃には色々と教えてもらった人だ。真面目だし、現場が好きで、
ベテランだからと胡坐をかくような人ではない。
だから、あの大家からその名前が出たと聞いて、正直、信じられなかった」


岳は、以前、営業の手助けにアンケート取りをした時のことを覚えているかと、

あずさに聞いた。あずさは『はい』と返事をする。

アンケートをもらうために、丁寧に対応した方がいいと、

『リラクションルーム』で話したことも、思い出していく。


「君が心配していた通り、最初の俺は『アンケート』をもらうことに、
たいした意味があると思っていなかった。だから、景品欲しさにウソを書く客を見抜き、
逆に追い返してやるくらいだった」


岳は、真面目に対応しない人間など、こちらもそれなりに受け取るしかないと、

考えていたことを話す。


「でも、その日、猪熊さんに言われたんだ。選別をしてはダメだって。
今は関係ないかもしれないけれど、それが変わることもあるって。
確かにその日の最後に、キツイ言葉を言った女性の、その意見から、
今回の『豆風家』や保育園と合わせた分譲のアイデアが出たし、
過去のアンケートを見直して、考え直す部分もたくさんあった」


岳は、それは猪熊の営業マンとしての考えで、

自分に意見してきたのだろうと思っていたが、それだけではなかったとあずさに語る。


「30年以上前、猪熊さんは今と同じ、営業担当だった。
バブルで、買い手も売り手もたくさんいて、モデルルームなんかを開くと、
毎週人だかりだった」


とにかく忙しくて、慌しくて、

客をさばくことだけで、あっという間に終わっていた時代。


「100人の客が来て、話しを聞く。
全てに100%を続けることはもちろん理想だけれど、体調の変化などで、
そうならないときもある。猪熊さんも、どこかでふっと気が抜けることがあったと、
そう言っていた。まぁ、こなしているとわかるんだ。『この人は意欲がある、ない』って」

「……買うか、買わないかということですか」

「そう……それは俺もわかる。冷やかしに来る人間と、
少しでも気持ちが前向きな人とは、質問も違うからね」


岳は、そんな大量の客の中に、入ってきたのが耕吉の妻であり、

亡くなった友華の祖母、『富田花』だったという。


「猪熊さん、覚えていたよ。それほど印象的なことだったのだろう。
恨まれても当然だと、そう……」


分譲マンションのモデルルーム会場に、花は会社名だけを考え、

土地の売買について、相談してしまったという。


「土地を売りたいと思っているが、どうしたらいいのか、
色々と話をしてくる業者もいるけれど、信頼できる人に頼みたいと、
そう言いに来たって」


花は、営業マンとして、マンションを全力で売り込んでいる猪熊の仕事振りを見て、

この話に絡んで欲しいと話した。

しかし、猪熊は分譲マンションのモデルルームという場所に、

花が真剣に話しをしに来たのだと思えず、つい、流すように対応してしまったと言う。


「若かったからさ、成績も競っていたし、土地の売買となると、全く分野が違う。
だから、猪熊さんは富田さんと『自分の先につながらない話し』を続けていることが、
もったいないと考えるようになった。すぐ後ろに、
マンション購入を迷っている人がいるのなら、その人を口説く時間を持った方が、
自分のプラスになるからって」


そのため、猪熊は自分の名刺を渡して、

あらためて話しを聞きますと、花を帰してしまった。


「猪熊さんとしては、名刺を渡したし、本当に土地を売りたいのなら、
アクションを取ってくるだろうと、考えていたみたいなんだ。でも、
花さんの方は違った。猪熊さんの仕事振りを見ていて、対応してもらいたいと思ったから、
猪熊さんの方が動いてくれると、そう信じてしまった」


花は、分譲マンションを購入しようとする人たちが書くアンケートに、

自分の家の住所と、電話番号を書いたという。


「しかし、アンケート自体に意見も何もないから、いざまとめる時になったら、
重要なものだと判断してもらえなかったのだろう。分譲マンションの新しいお知らせは、
送られたかもしれない。でもそれは花さんの意思とは違うわけで。
気付くと、時間が経っていて……」


花さんが、モデルルームの営業場所を尋ねてから半年後、

あの新聞記事のように、『BEANS』と付き合いがあるからと近付いてきた男に、

うまいような話しをされて、土地を売ってしまったという。


「敦の持ってきた資料と重なる部分はそこだった。
しかし、猪熊さんと花さんのかみ合っていない会話があっただけに、
相手側とすれば、うちに誠意がないとそう思うのだろう。
何も知らない担当者が、後日、富田家の土地の広さを知って、
話に向かった時には、ご主人が絶対に『BEANS』だけは嫌だと……」


岳は湯飲みに口をつける。


「猪熊さんも、あの日のことを覚えていたわけではなかった。
あまりにも対応する客が多くて、自分のコメントを
用紙に残さないこともあったらしいんだ。でも、後から別の営業マンから話しを聞いて、
アンケート用紙をひっくり返して探した時に、花さんを思い出したって……」


岳は、そんないきさつがあったと、あずさを見る。


「あの人はいつも言っていた。どんな態度の人からも、真剣にアンケートをもらうこと。
1枚の用紙に、先入観なしに対応すること。それはきっと、この苦い経験から、
来ている言葉なのだろうなと、今思う」


あずさは、その時代を知っているわけではないが、確かに誰もが浮かれていたために、

こんなズレも生じてしまうかもしれないと、考える。


「これが全貌だから、うちが無関係だとは言わない。
でも、猪熊さんの落ち度だと、責めるにはあまりにもだ。
俺は、定年間近の猪熊さんに、今から富田さんに許してもらえるまで謝罪しろなんて、
そんなことは言えない」


岳は、人は完璧ではないからとあずさを見る。

あずさもその通りだと、頷き返す。


「なんとかあの大家に『BEANS』のイメージを
変えてもらいたいと思う君の気持ちもわかる。
でも、あの場所に、建物が建ってしまった以上、それは無理だ。
親切にしたことでもあだになることはあるし、理解にも限度がある」


岳は、事実を知り、下を向くあずさに、『ごめん』と声をかけた。


「どうして岳さんが謝るのですか」

「君の気持ちには応えられていないと、わかるから」


岳は、自分に出来ることをこれからもするしかないと言い、お茶を飲む。


「君の心の中を語るとしたら、事実を知り、猪熊さんのことがわかったから、
あらためて『BEANS』として富田の家に謝罪をして、
互いに行き違いがあったことを話してと思うのかもしれない。でも、それは無理だ」


岳はそういうとあずさを見る。


「組織として、謝罪するのかしないのか、その判断はもう出ている。
これで……納得してくれ」


岳は『組織』という言葉を使う。あずさは岳の話しに、黙ってうなずいた。





【ももんたのひとりごと】

『25歳』

あずさの年齢設定は、『25歳』です。大学、短大を卒業し、仕事をして、
新人と言われる時期から、そろそろ戦力となる年齢だと思います。
さらに、女性はこのあたりから、『寿退社』という話も出てくるわけで……
現代は、女性も高学歴になり、仕事も一生ものと思う人が増えてきています。
ママ友さんにも、この年齢の娘を持つ人がいますが、『結婚』とは程遠いと、
笑っていました。




【38-1】



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