40 理想の仕事 【40-1】

「その人は、先日、私に30年以上前の話しをと、言ってきました。
しかし、事情を語った後、どう思ったのか感じたのか、一切、何も言いません。
もちろん、私からも何も聞いていません」

「……はい」

「だからです。だから私は、自分から行動しようとそう思いました」


猪熊は友華に渡した名刺とは違う、別の名刺を出す。

今のように横に印刷されたカラーのものではなく、デザインは縦で、

ただ所属と名前だけが書いてある。


「これは、私が入社した頃のものです。ここに入れっぱなしでボロボロです。
『BEANS』の、今は会長になられた方から、直接いただいたもので、
仕事につまずきがあったときには、頑張ろうといつもお守りのように見てきました。
それから社長が代わり、世の中の状態が移ってきましたが、
アナログで、新しいものもなかなか覚えられない私を、
会社は本当に長い間、面倒見続けてくれました」


猪熊は、いまだにパソコンも上手に出来ませんと笑う。


「『BEANS』は、またさらに未来へ向かって成長しようとしています。
私は会社にお世話になったせめてものお礼に、最後、なんとか恩返しをしたいのです。
会長から、現社長、そして新しい時代を築いていく『あの人』に……」


友華は、話の流れから、あずさの引っ越しの日、訪れた人のことを思い出す。


「あの人って……あの、もしかしたらここに来てくれた……。社長の息子さんだと」

「はい、おそらくそうだと思います。『相原岳』さんです。
私に昔話を聞きに来たのは……」


猪熊は、心配そうな友華を見ながら、営業マンは打たれ強いですよと微笑んでみせる。

友華は、祖父にとっても何か新しいものが開ける気がして、

『お願いします』と猪熊に頭を下げていた。





その日の夜、あずさは友華から連絡をもらい、富田家に猪熊が来たことを聞いた。

もちろん、畑まで出かけても、耕吉は全く会話をしようとしなかったので、

対面時間は15分もなかった。


「猪熊さんが」

「はい……」


あずさは、岳がお願いしたのだろうかと顔を見る。


「この前も話したとおり、俺は何も言っていない。事情はわかったけれど、
当時も行き違いがあったと、謝罪はしたようだし。今更……」


岳は猪熊が、長い間、1枚のアンケートを丁寧に取り続けてきたことを思い出す。


「未来を……か」

「富田さんが素敵な会社だと、そう言ってくれました。辞めていく社員が、
会社のために何かを残したいと思うなんてって」

「うん」


岳は、以前、自分が『稲倉』の入札を避けたことに対して、

武彦に詰め寄ったことを思い出す。武彦は、社長として社員全体のことを見た結果、

『岸田』の案を採用した。


「『フラワーハイツ』も、新しい人が決まったそうです。
部屋探しは、夏くらいにならないといいものは出ないって」

「うん……」


岳は、リビングに向かってくる東子の姿がないかを確認する。


「休み……だけど」

「はい」

「夏くらいまで、難しそうだ」


岳は、猪熊のこともあるし、『岸田』も再会してまだ日が浅いこともあり、

今は自分が本社から抜けられないと口にする。


「はい」


あずさは明るく返事をする。


「明るいな……その返事」

「仕事は大事です。楽しみは先延ばしにしましょう」


あずさは、今のセリフに岳が少し笑った気がして、急に恥ずかしくなる。


「おやすみなさい」

「あぁ……」


あずさは赤くなる顔を見せないように階段をのぼり、自分の部屋へ入った。





友華が仕事に戻ってからも、猪熊はほぼ毎日、富田家を訪れた。

しかし、耕吉は部屋から出ることなく玲子だけが会う日が続く。

岳は会議にもまどかを連れて出席し、時間を見つけては『肩もみ』を頼んだ。

まどかはすっかり自分が岳に頼られていると思い始める。


「今日、発言をしてもいいでしょうか」


まどかは、AとBと建てられるマンションの造りを、

あまり変えないのでは団地のようになってしまうと意見を述べる。


「団地」

「はい。左右対称のような建て方は、デザイン性が足りません。
日当たりの面で、そういう案が出たのだとは思いますが、
それは『紅葉の家』の傾きを少し抑えて、保育室も場所を考えたら……」

「朝原さん」

「はい」

「君と行動して10日だよね」

「……はい」

「ちょうどいいかもしれない。ちょっといいかな」


岳はそういうと、まどかを最上階の社員食堂に誘った。

昼にはまだ少し早いため、

中には、打ち合わせでコーヒーを飲むような社員たち数名しかいない。

岳は窓側に立ち、解体工事を開始するために

すっかり覆われてしまった『Sビル』を見る。


「あの場所にあるビル。『Sビル』といって、うちのビルなんだ。
この本社ビルが出来るまでは、あの場所が本社だった」

「はい」


まどかは岳の隣に並び、同じように前を見る。


「会長はあのビルの中に、バンドがコンサートを開けるような防音室を作っていた。
元々は、そこがサロンのようになっていて、社員が食事をしたり、休憩したり、
つまり、今のここのようなものだった」


岳は、半年くらい前の、賑やかだった日々を思い出す。


「本社をここに建ててからは、頑張ろうとする人たちに場所を提供してきた。
同じように、戦後から立ち上がろうとしてきた人や会社を、
救えたらいいという思いもあってね。
まぁ、老朽化が進んで出て行ってもらうことになってから、そこからが大変だった」


岳は、自分自身は『契約書』を振りかざし、

とにかく出て行けと叫ぶだけだったと笑う。


「それが間違っているとは、今でも思っていない。借主と貸主。
契約書が一番大切なのは当たり前だ。一人一人の事情など聞いていたら、
いつになってもビルを空け渡してもらえないからね」


岳はそういうと、荷物だらけの『アカデミックスポーツ』で、

柴田社長と言いあいをしたことを思い出す。


「何を一番に考えて、どこを引き立たせるか。そのためには切る部分もあるし、
説得して折れてもらうこともある。朝原さんの企画にはその魅力は十分にあった」

「はい」


まどかは、岳が自分を認めてくれていると思い、嬉しそうに口元が動いた。



【40-2】



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