4 隣の席の男

4 隣の席の男

水曜日のちょっとした出来事が終わり、またいつもの生活がスタートした。

新学期の慌ただしさも少しだけ落ち着きを見せ、事務局にも余裕が出来る。

ちょうど腕時計に目をやると、午後の講義が始まる時間で、私は仕事に区切りをつけ、

財布を手に持ち、立ち上がった。


「食事に行ってきます」


学生の昼食時間を少し過ぎたあたりで大学を出て、近くにある喫茶店へ向かう。

そこで出してくれるカルボナーラが好きで、ちょっと気分を変えたいときなどは、

一人で食べに行くのだけれど、座席数はそれほど多くないため、時間を外さないと、

座れなくて待たされることも多い。


一番隅の椅子に座ると、入り口からは隠れてしまうので、本を読んでいても、

目の前をチラチラ人が移動したりせずに、集中出来る。

そんなところがお気に入りで通っていたら、お店の人も私の顔を見ると、

奥の席を勧めてくれるようになった。


ハンカチと財布を横に置き、持ってきた雑誌を広げたが、

いつもと違ってなかなか集中できずに、ふわりと頭に浮かんだのは、

あの日、映画館の隣に座った広橋君の横顔だった。


25才という年齢からだろうか、時々はっとするような表情をされるときがあり、

3つか4つの違いなのに、他の学生とは空気感が違う。

気をつけないと、無くしてしまいそうな小さなチケットを、財布から出してみては、

またしまう日々が続いていた。


時々、事務局玄関のガラス前を通る広橋君は、あまりにも普通の顔で、

水曜日にあった出来事など、すっかり忘れているように見えた。





毎年、姉と一緒にお金を出し合い、母の日と、誕生日を重ねたプレゼントを

この6月に贈っているが、今年の担当は私だったため、給料日を迎え、

久しぶりに華やかな夜の街に出た。

ライトがあたるショーウインドーには、季節柄、素敵なウエディングドレスと

側にはオブジェとして置かれたピアノがあり、幸せの1ページを演出する。


白と黒の鍵盤をじっと見ていると、私の頭の中を、広橋君が弾いた『革命』が動き始めた。

予定にはなかったのに、楽器店へ向かい、棚に入っていたピアノの楽譜から

『革命』を抜き出した。


父が大好きだったこの曲を、私も弾いてみたいと何度も思ってきたが、

手が小さく、どうしても指がしっかりと届かない。

鍵盤を強く押さえる力がない私には、どうしても弾きこなせなかった。

音符を追っているうちに、懐かしさと悔しさなのか、涙が浮かび、

商品を濡らしてはまずいと、私は慌てて楽譜を棚に戻した。





店を出て反対側にある書店の前にいた、一組のカップルが楽しそうに笑い声をあげ、

何気なくそちらを向く。


女性には全く見覚えはないが、隣で楽しそうにする男性には、会ったことがある。

何ヶ月か前まで、私の隣に立っていた慎也が、新しい彼女とこぼれ落ちそうな笑顔を見せ、

笑っていた。私達にもそれなりに楽しかった時期があったはずなのに、

あんな表情を、一度も見せてくれたことはない。

軽く口元をあげるくらいの笑い方しか、私の記憶にはなかった。


彼の歯が思ったよりも白く、目があんなに細くなるくらい表情を崩すことが出来るのかと、

ざわつく気持ちを抑えたくて、私は目をそらし、店の隅にある階段へ向かう。





足の動くままに歩き、たどり着いた場所は、広橋君と入った映画館だった。

まだ、最後の上映まで余裕はあったが、ここで時間をつぶすことも悪くないと

もらったチケットを叔父さんに手渡し、私は廊下の小さなベンチに座る。


中で上映されているアクションシーンの効果音が、ドン、ドンと床を振動させ、

私の足元に届けられた。


残り10分で最後の上映が始まるくらいの時間になると、広橋君が言っていたように、

古い映画を見たいファンの客達が、ポツリポツリと姿を見せ始める。

誰かが映画館の入り口を通るたび、確認するように視線をあげたが、広橋君は現れず、

最後の上映時間を迎えた。


1ヶ月前に見た映画は戦前に撮影されたフランス映画で、今日上映されるのは、

同じ頃に撮られたアメリカ映画だ。


フランス語の独特なイントネーションに比べ、英語はさすがに聞きやすいと

思いながら見ていると、隣に人が腰掛ける気配を感じ、私は何も考えず横を向いた。




広橋君だった……。




私に気付いているだろうに、声をかけてくることもなく、彼は画面の方を向いている。

私は彼に気付いたことを気付かれないよう、同じように視線を前に送り続けた。


主人公がヒロインのために一生懸命頑張るが、要領が悪く失敗する。

そんなコメディタッチの部分では、会場からクスクスと笑いが漏れ、

隣にいる広橋君の肩も、微妙に揺れた。

はじめは緊張していた私の心も、少しずつ慣れ、その日上映された作品を、

最後までしっかりと堪能することが出来た。





「……どうも」

「こんばんは」


エンドロールが流れ始めた時、広橋君は初めて口を開いた。

私は時計で時間を確認し、帰る時間を意識したように見せ、画面に目を向ける。


「失敗したかなって思ってたんですよ、ずっと……」

「エ?」


広橋君はポケットから財布を取り出し、映画館のチケットを私の目の前で振った。

1ヶ月ほど前、何枚も綴られた状態だったはずのチケットは、残り2枚になっている。


「チケットを渡したら、すぐに来てくれるんじゃないかって、僕は毎週ここに来て、
偶然を装うように座ってました」

「……毎週?」


その時初めて、私は彼がチケットをくれた意味に気がついた。

驚いたままの私を見た広橋君は、我慢したような笑い方をする。


「垣内さんがあのチケットを持ってここへ来て、で、僕が隣に座って、
あ……偶然ですね。垣内さんも気に入ったんですか? ここが……って言いながら、
二人の距離が近づくんじゃないかと……。しっかり計算したはずだったんだけど、
毎週、毎週、空振りで、睡眠不足にはなるし、気持ちは凹むし、この1ヶ月間、
結構ストレスたまりましたよ」

「クスッ……」


正直に自分の気持ちを表されたのは、嫌な気分ではなかった。

大学の事務局でカウンターを挟むと、構えてしまう心が、

こんなふうに、映画館で語り合うと、簡単に解き放たれる。


「行ってみようかな、どうしようかな……なんて考えていたら、1ヶ月経っちゃったのよ。
でも、今日はちょっと用事があって出て来たから。なんとなく寄ってみたくなった」

「用事?」

「うん、毎年ね、母に誕生日プレゼントを贈るのよ、姉と一緒に。今年の担当が私だから、
買い物をして、それからここへ来てみたの」

「へぇ……」


上映が完全に終了し、会場に明かりがつくと、見ていた客達は次々に映画館を出始めた。

広橋君と話す時間の終了時刻が迫り、私は少し切なくなる。


「また、来てみようかな。今日の映画も楽しかった。1週間に一度くらいいいわよね、
こんなふうにゆっくりとした時間を過ごすって言うのも」

「そうですか?」

「うん……」


そんな言葉を出してしまってから、私は思わず目を閉じた。

まるで、また来るから、あなたも来てと言っているように聞こえてしまう。


「チケット、あげましょうか?」

「ううん……帰りに買っていく!」


あなたにここで会って、もっと話をしてみたいのだと、そう心が小さな声をあげた。





そして、1週間後、同じ場所に座り、上映時間を待っていると、

当たり前のように、隣に広橋君が腰掛けた。


「こんばんは」

「こんばんは、今日はインドの映画なんだって。チケットを手渡したら、
叔父さんが教えてくれたの。主演の男性はもう亡くなったけど、有名な俳優さんで、
二枚目だよって」

「ん? 僕にはそんなマメ情報、流してくれたことなんかないのにな」

「そう?」

「そう……」


待ち合わせたわけではないし、約束をしたわけではないが、来てくれるだろうという期待は、

十分すぎるくらい持っていた。

少し早めに到着し、100%とは言い切れない確率に、ドキドキしながら過ごすことが、

私の生活の中のアクセントになり、それが楽しみに変わっていく。


「上松教授って、なんであんなにつまらない講義をするんだろうな」

「そんなにつまらない?」

「受けてみますか? 説法聞いているみたいですよ」

「説法? それはいくらなんでも言い過ぎじゃないの?」

「いえ……何を話していても、最後は必ず精神論なんですよ。そんなことはいいから、
経済学を教えてくれよ! と、いつも睨んでます」

「あら……」


学校のことも、ちょっとしたプライベートのことも、座り心地のいいシートの力なのか、

飾らないまま口に出来るようになる。


私にとってこの時間が大切なように、広橋君の中でもそう想う気持ちが育っていて欲しいと、

心のどこかで願っていた。





5 夢から覚める日 へ……




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コメント

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インド映画?

インド映画は見たこと無いな~~
無くした恋を引き摺っては居ない、けれど見たことも無い元彼にざわめく心。
敦子に笑顔を与えてくれるのは?

やはり蓮くんはあれからずっと通っていたのね。『来る、来ない、来る、来ない』
乙女の花占いか!_(*_ _)ノ彡バンバン 

繋がっていたことにホッとしたのは敦子?蓮君?

育つ恋心…

水曜日のこの映画館が…、二人にとってかけがえのない時間になっていくのですね~^^

>100%とは言い切れない確率に、ドキドキしながら過ごすことが、
 私の生活の中のアクセントになり、それが楽しみに変わっていく。<

不確定な約束だから…余計、相手の気持ちが嬉しくて、期待して…^m^
こうして恋心って育っていくのね~!

>毎週、毎週、空振りで、睡眠不足にはなるし、気持ちは凹むし…<
弱気の広橋くんもたまには、素直で可愛いね♪
こんな彼の方が、彼女も受け入れやすいかも~^^;

気になること

yonyonさん、さらに、さらにこんばんは!


>無くした恋を引き摺っては居ない、けれど見たことも無い元彼にざわめく心。
 敦子に笑顔を与えてくれるのは?

自分と別れた男が、もっと幸せそうにしている姿って、どこか悔しくないかなと思ったんですよ。


>繋がっていたことにホッとしたのは敦子?蓮君?

さて、どっちでしょうね(笑)

次の手は?

eikoちゃん、ふたたびこんばんは!


>不確定な約束だから…余計、相手の気持ちが嬉しくて、期待して…^m^
 こうして恋心って育っていくのね~!

そう、ドキドキ感が、気持ちを高めていくものでしょうね。
わかっていても、来てくれたらとっても嬉しくて。


>弱気の広橋くんもたまには、素直で可愛いね♪
 こんな彼の方が、彼女も受け入れやすいかも~^^;

うふふ……次の蓮は、どんな感じでくるでしょうか。
続きもお付き合いお願いします。

お互いの気持ちが

同じ速さで進んで行くと良いですね~。古い映画をじっくりと静かに観る…きっと誰もガザゴソしたりしないんですよね。ポップコーンなどもなく…(笑)こういう時間を共有してずっ~と一緒にいるのに憧れます。
素敵な空間にどっぷり浸かり、元気を取り戻して、また怪獣たちと向き合いますわ^m^

恋……なんですよ

yokanさん、こんばんは


>少しずつ、少しずつ近づく二人の関係・・・ウフ、いいね~^^
 純情なころの自分を思い出してしまうわ~(笑)。

yokanさんの恋は、こんな感じだったんですか?
敦子の語りで進む話ですので、女性は感情を移入しやすいと思うんですけど……。

恋……ですよねぇ

憧れ

ラピュタさん、こんばんは!


>こういう時間を共有してずっ~と一緒にいるのに憧れます。

はい、私も憧れます。
創作を書く時って、いつもどこかに自分の憧れ……が入るんですよね。
書いて、照れて……また、書いてます(笑)

ここで癒されて、また元気になってもらえたら、とっても嬉しいです。