握られたままの手を見ながら、
あずさは『一緒にいたい』という気持ちは、自分も岳と同じように持っているのだから、
あれこれ頭で考えることなどせずに、ただ着いていこうと考える。
岳の押したボタンは、当然ながら客室の階だった。
一緒に乗った男性客たちはすぐにいなくなり、
二人だけのエレベーターは、あずさの思いなど気にすることなく、上昇する。
岳に手をしっかりと握られたまま、あずさは黙って部屋に向かった。
廊下を歩き、カードキーを差し込むと揃って部屋に入った。
扉を押して入ると、そこに広がる空間は普通のホテルの部屋と違い、
間取りも広く、都心の夜景が楽しめる大きな窓もあった。
岳はあずさの手を離し、上着を脱ぐとネクタイを外す。
それを窓近くにある籐の椅子の背もたれにかけた。
こういった場所に慣れているような動きに、あずさはただ目を動かすだけになる。
そのあずさ自身は、岳の手が離れてから、先に一歩も進めなくなっていた。
『一緒にいる』と言われたのだから、部屋は当然1つだし、
ベッドは二人でも余るくらい大きなものが1つだけある。
こんなとき、どんな話をしていればいいのか、どこにいればいいのか、
あらためて自分は何も知らないのだと視線だけを動かし続ける。
「あずさ……」
岳の声に顔をあげると、そんなところに立っていないでこっちへと声をかけられる。
あずさは緊張する足をゆっくり進め、とりあえず岳の上着がない籐の椅子に座った。
「あぁ……もう、全然わからない」
その頃、相原家では宿題のプリントを机に並べたまま、東子が大きな声を出していた。
頼ろうと思った岳はいまだに戻らず、いつ帰ってくるのかもわからない。
滝枝の話しでは、『夕食は必要ない』と言って出て行ったと聞いている。
しかし、『BEANS』が休みの日であることも、父親の様子でわかっていた。
となると、プライベートで出かけたと考えるのが普通になる。
「はぁ……」
東子は、『妹の予感』を働かせ、
岳がこの後戻ってくると言う選択肢はないだろうなと思いながら、
鉛筆を机の上で転がした。
「あずさ、上着取ってくれないかな。ハンガーにかけておく」
「あ……はい」
あずさは椅子から立ち上がり、岳の上着を取った。
ハンガーを持っている岳のそばに向かう。
「あ……」
岳がつかんだのは、上着ではなくあずさ自身だった。
あずさは上着を手に持ったまま、どうしたらいいのかと固まってしまう。
岳の大事な上着だと思い、下に落とすわけにもいかないため、
その両手が妙に浮いた状態になる。
「……クッ」
岳は笑いをこらえるようにすると、腕の中からあずさを逃がし、
その手にあった上着を受け取った。ハンガーにかけるとクロゼットに入れる。
あずさは、また笑われてしまったと、視線も気持ちも下に向いてしまった。
「なぁ、さっきの話の続きだけれど……」
「……そんなに私、おかしいですか?」
あずさはそういうと、上着のなくなった手を握りしめた。
岳は、急に声のトーンが落ちたあずさを見る。
「あずさ……」
『恋』に慣れた大人の女なら、誘い方も誘われ方もわかるのだろうが、
あずさには何もかもが初めてで、しかも予想以上の部屋の状況に、
浮いた気持ちだけがそこにあるが、コントロールできなくなる。
「私、きっと今日はこの後おかしなことだらけです。だから笑うのなら、
今、ここで思い切り笑ってください」
岳はクロゼットの場所から、あずさのそばに戻ってくる。
「ごめん……あのさ」
「今日は岳さんにお任せすると、確かに言いました。
でも、思いがけない買い物があったり、食事をしている場所でも、
話の途中で急に出ると言い出すし、ここに入ったら今のようにからかって……。
そうなんです。私、田舎者なので立食パーティーも知らないですし、
こんなホテルの素敵な部屋も、入ったこともないですし、どこに座ったらいいのか、
何をしていたらいいのかも全然わからなくて……」
楽しく話をしていたら途中で止められてしまい、言われた通りのことをしようとしたら、
からかうようなことをされてしまったと、あずさは訴えようとする。
「私……」
文句を言っているあずさの体は、再び岳に抱きしめられる。
上着を渡そうとしたときとは違い、岳の両手はしっかりと回される。
「あずさ……」
『あずさ』という自分の名前が、優しく耳元に届く。
あずさは、その響きを受け止めるように、その場で目を閉じた。
「君を笑うつもりも、怒ったつもりもない。食事の場所で、限界だと言ったのは、
話を聞きたくなかったからではなくて、あずさの声も、楽しそうな表情も、
全部ひとりじめしたかったからだ……」
岳はそういうと、あずさの首筋に唇を当てる。
「今も、からかったように見えたのなら、ごめん。そんなつもりもない。
今日はずっと、緊張しているのがわかっていたから、
少しでも固さが取れたらと思っただけで……」
岳の視線が、あずさを見る。
「笑えるくらいなのは俺の方だ。
今まで人のことなんて考えて行動をしたことがないから、
自分でも振り返ると、こうした時間が強引だったのではないかと、そう思っていた。
買い物をして、食事をして、さっきも言った通り、ただ君が笑ってくれたらそれでと……」
岳はあずさの頬に軽く触れ、そして優しく口付ける。
「……でも、いつまでもそれだけでは終われないから。
どうしても一緒にいたい。だから『限界』だと、そう言った」
岳の言葉に、あずさは目を開ける。
その時、初めて『限界』と言う言葉の意味を知り、一瞬にして顔が赤くなる。
「今日は全てを任せてと、そう言ったよね」
岳の問いかけに、あずさは頷く。
「だから……今から全てを俺に任せてくれたらいい。
わからないなら怖いかもしれないし、どうしたらいいのか迷うかもしれないけれど、
それでいいんだ」
岳に導かれるように、あずさはベッドの端に腰を下ろした。
「俺を信じてくれたら……それで……」
岳の唇の動きに、少しずつあずさの体がベッドの方に倒れていく。
「あ!」
「何?」
流れていくように思えた雰囲気が、あずさの声に一気に吹き飛んでしまう。
「あの……シャワー……」
あずさはシャワーを浴びますと、岳の体に両手で抵抗する。
「シャワー……」
岳から、何も言われないことに対して、あずさの声が小さくなってしまう。
あずさはそらした目を、ゆっくりと岳の顔に向ける。
「……で、いいと思うのですが」
あずさの弱くなってしまったコメントに、岳はまた笑い出す。
「あずさ、一緒に入ろうか」
「……いえ、いいです。ハードルが高すぎます」
あずさはそういうと、飛び跳ねるようにベッドから降りる。
「すぐに戻ります」
そういうと早足でバスルームに向かう。
岳は、自分が思っていた通りだったのだと、あずさの気持ちを振り返った。
【45-5】
コメント、拍手、ランクポチなど、お待ちしています。(@゚ー゚@)ノヨロシクネ♪
コメント