48 真実の力 【48-5】

その日は、岳にとって特別な日だった。

朝の会議を終えて、すぐに社長室に向かう。

ノックをした後、相手側からの許可を待つことなく、部屋の中に入ると、

武彦と雑談をしながら笑っている猪熊の姿があった。


「おはようございます」


岳の挨拶に、猪熊は慌てて立ちあがる。


「おはようございます」


猪熊の定年。それが今日という日だった。

儀式などは営業部内で行うのだが、社長の武彦も、父の代から3代の付き合いがあり、

成績も優秀だった猪熊には、特別な思いが存在した。

岳も新人の頃から指導を受け、先日、富田家のトラブルを一緒に解決したという思いが、

一人の営業マン以上の、感情を呼び起こさせる。


「こんなふうに社長と岳さんに声をかけていただいて、私は幸せ者です」


猪熊は、振り返ると楽しいことばかりでしたと笑顔を見せる。


「猪熊さん、怪我の方は」

「あぁ、もうすっかりいいですよ。生活にも問題はないですし、そうそう、
おととい、富田さんのところに、挨拶に行きました」

「それで……」


岳は、またあの頑固な耕吉が何か言ったのではないかと心配する。


「ご苦労様と、そう言ってくれました」

「本当ですか」

「はい……」


猪熊は、休みの日になると、友華の友達としてあずさが富田家に顔を出し、

時々、農作業を手伝ってくれる話も聞いてきたと笑う。


「あずささんが」

「はい……なんだか、群馬ではおばあさんが農業指導のボランティアをするほどで、
土いじりは健康にいいと……」


岳は、あずさらしいなと思いつつ、話を聞き続ける。


「岳」

「はい」

「猪熊さんには、私から、『翠の家』の雑務を引き受けてもらったよ」


武彦は、定年後、正社員ではないが、のんびりと手伝って欲しいとお願いし、

猪熊も体を動かしていた方がいいのでと、引き受けたという。


「そうですか」

「はい。成績の関わる営業マンではなく、みなさんが施設を使いやすく出来るよう、
頑張って体を動かしますよ」


契約は猪熊の希望で、毎年1年ずつにしたと言う。


「今、敦を呼んだ。先客がいたもので、少し遅れてくるらしいけれど」

「先客……」


武彦は、『豆風家』に入って数ヶ月なのに、すっかり敦が頼られていると、

嬉しそうに話す。


「そうですか」


始めは、自分のそばにいてくれると思った敦が、『BEANS』から抜けていくことに、

強く孤独感を持った岳だったが、弟が頑張っている話しを聞き、

そのままを受け入れる気持ちになる。


「『BEANS』は安泰です。社長の育てたお二人が、立派に成長されていますから」


猪熊がそう言って笑うと、扉がノックされ、敦が『遅れてすみません』と入ってくる。


「あ……来ましたよ、もう一人の期待の星が」

「エ?」


猪熊の言葉に、飛び込んだ敦は、意味がわからず岳を見る。

岳は自分の隣が空いていると、ソファーをポンと叩いた。





「猪熊さんから聞きました?」


あずさは夕食の片づけをしながら、岳の方を見る。


「あぁ……休みの日に、友華さんと農業の手伝いをしているとか」


岳は麦茶を飲むと、今日、猪熊が退職したことを話す。


「そうなんです。友華ちゃんも太陽の下は気持ちがいいって。そうですか……猪熊さん、
定年なんですね。でも、よかった。『豆風家』でまた仕事が出来るのでしょう」


あずさは水道の蛇口を止め、今度は洗ったお皿を拭くために布巾を持つ。


「うん。敦も喜んでいたよ。猪熊さんは人当たりもいいからね」

「そうでしょうね……あの耕吉さんが、認めた人ですから」


岳は飲み終えたコップを持ち、あずさのそばに向かう。


「でも、私、農業の手伝いになっているのかな。
耕吉さんにはもう少し器用なのかと思ったって……」


言葉の途中で、あずさは岳が自分に近付くのを感じ、

向かい合うように立ち位置を変える。


「……笑われてしまったのに」


あずさは、根を掘ろうとしたのに、途中で切れてしまったと説明する。

あずさと岳は、流しの前で向かい合うようになる。


「なぁ」

「はい」

「どうして急に体の向きを変える?」

「……急ですか?」


あずさは、流しの部分に自分の背中をピタリとつける。


「あのさ」

「はい」


あずさの緊張した顔を見ていた岳は、自分の両手をあずさの頬に当て、じっと顔を見る。

あずさは、唇が近付くのではないかと、慌てて目を閉じた。

しかし、数秒待っても触れる気配がないため、ゆっくりと目を開ける。


「全く……あずさに触れようとするたび、
いつも、悪いことをしているような気がするよ」

「エ……」


岳はそういうと、両手を頬から離す。


「今日は、帰るよ」


岳はそういうと、部屋に置いた荷物を手に取り、出て行こうとする。

あずさは、自分が妙な態度を取ってしまったからだと思い、布巾とお皿を置くと、

思わず『待って』と手を伸ばす。


「ごめんなさい……嫌だとかそういうのではなくて、なんだか緊張して……。
恥ずかしいのが……あの……」


それでも岳が何も言わないため、あずさは自分から岳にしがみついていく。


「今日は一緒に過ごすと、決めたのに……」


朝まで一緒にいようと思っていたと、あずさが声を出した瞬間、岳が表情を変える。


「あずさ……」

「はい」


あずさは、何を言われてもこの手は離さないという思いで岳を見る。


「全く……いちいち芝居をうたないとならないのか。
たまには、素直にそういう顔を見せてくれ……」


岳の手が、あらためてあずさへ伸びる。


「……このまま帰るわけがない」


あずさはそこから声が出せない状態になり、岳のカバンは音をさせて下に落ちる。

首筋に流れる唇の動きに、あずさは思わず岳の腕をつかむ。

あずさに触れていく岳の手に、声を出そうとするが、それは吐息になってしまう。


「ダブルベッド、部屋に置けばいいのに……」


岳の無理な要求を、あずさは首を左右に振り否定していく。


「……無理なこと……わかってますよね」


あずさの精一杯の抵抗を受けながら、岳は『そうだね』と返事をした。





【ももんたのひとりごと】

『挫折』

発芽室を訪問してくださっている方の年齢は、それぞれなのでわかりませんが、
過去を振り返ってみて、何一つ後悔はないという方、いるのかな。
私自身は、『あぁすればよかった』のオンパレードです。
話の中にちょこちょこ登場してきた敦の従兄弟、千晴。
彼女にも色々と流れてきた時間がありますが、
『嫌みキャラ』全開で、話のラストスパートに向かって頑張っています。




【49-1】



コメント、拍手、ランクポチなど、お待ちしています。(@゚ー゚@)ノヨロシクネ♪

コメント

非公開コメント