56 そのままの二人 【56-3】

次の日、興奮状態のまま朝を迎えた東子は、いつもより早く起きると、

すぐに1階に向かった。キッチンではいつものように、滝枝が食事の支度を始めている。


「おはよう、滝枝」

「東子さん、早いですね今日は」


滝枝は、学校で何か行事でもありましたかと東子に尋ねる。

東子は廊下に誰もいないかと左右を確認し、滝枝に手招きをした。


「はい……何か」

「滝枝……。あのね、まぁ、滝枝は大丈夫だと思うけれど、
これからはしばらく、そうしばらくだよ、岳には特に優しくしてあげてね」


東子は、岳は今、とても傷ついているのだとあえて遠まわしな言い方をする。


「傷ついて……とは、あの、何かお仕事でまた、トラブルでも」

「いやいや、仕事のトラブルなんかでは、あれは傷ついたりしないわよ。
もっと、もっと、繊細で、そうだな、胸がグッと締め付けられるような……」


東子はそういうと、滝枝に『聞きたい?』と疑問符を投げかける。


「聞きたいというか、東子さんが話されたいような……」

「うん」


東子は満面の笑みを浮かべ『そうなの』と言いながら、

岳があずさにプロポーズをしたが、あずさは断ってしまったと、

あまりにも簡単に言い切ってしまう。


「断った」

「そう……あ、えっと、なんだっけな。確か理由が」


東子は、『プロポーズ』という言葉だけが、頭にこびりついていたため、

『アカデミックスポーツ』のことなど、付属で語られていたことについて、

一切覚えていなかった。滝枝は、あずさも岳を好きになってくれていると

実は思っていたのにと、切なそうな顔をする。


「あ、いや、あのね。全然ダメということではなくて。きっと、
岳がもう少し優しくなったら、考えてくれるとかそういうことだと思うよ」


東子がそういうと、浩美が扉を開けて出てくるのがわかったため、

滝枝に向かってとにかく『内緒』というように指を口の前に立てる。

滝枝は、幼い頃に母を亡くした岳を知っていたため、

また、寂しく辛い思いをしたのかと、料理の手が止まった。


「おはよう、滝枝」


浩美の挨拶にも、滝枝は数秒遅れてしまう。

すぐに『おはようございます』と頭を下げたものの、その表情の重たさは、

隠せなくなる。


「何かあったの? そんな深刻な顔をして」


浩美は、疲れているのではないかと話し、滝枝に休むようにと声をかける。


「いえ、そんな……大丈夫です」

「でも……」


滝枝は浩美の前を横切ろうとしたが、その足はすぐに止まってしまう。


「奥様……」


滝枝の声に、浩美はすぐに振り向いた。





「あはは……」

「笑い事ではないわよ。全く、あの子は」


浩美は、東子が自分たちの話しを立ち聞きしたと知り、

そこから、メールを敦と千晴に送ったことも聞きだした。

『岳のことを考えて』と、浩美は千晴を呼び出すと、わかっているわよねと釘をさす。


「叔母さん、私はそこまで面倒な人間ではありません。
実際、昨日、東子からメールをもらったけれど、誰にも話しをしていないし。
おそらく敦もね」

「敦は、岳本人から聞いていたそうよ。
あの子達、時々敦のマンションで会っているみたいで」

「あ、そうかもね」


千晴はそういうと、浩美が出してくれたお茶を飲む。


「それにしても、宮崎あずさらしいというのか……なんなのか」

「かもしれないけれど、大丈夫なのかしらね、仕事が頑張れたらだなんて、
先がわからないし。岳を支えてやるように、敦には念を押したけれど……」


浩美は、そんなふうに空中に浮いたような話しでいいのだろうかと、首を軽く傾げる。


「叔母さん、岳のこと、心配しているんだ」


千晴は、そういうと浩美を見る。

浩美は、『だって……』と言いはじめるが、その後は続かない。


「まぁ、大丈夫だと思うよ、それほど長くはかからないはず。
『アカデミックスポーツ』の評判は、実際、悪くないのよ。
それはドラマ撮影の時に、裏方もみんな感じていたことなの。
スタッフさんが言っていたもの。『色々なスポーツジムがありますけれど、
最初にイメージ調査をしたら、とにかくポイントが高かったって』」


千晴は、スポンサーにしたり、ドラマの中で会社を使うときには、

そこがどういうイメージを視聴者に持たれているのか、しっかり調べておくものだと、

業界の常識を口にする。


「あの花輪って男、非情そうに見えて,現実をしっかり見ているタイプだからね。
一度辞めてやるって出て行った人を、戻してしまうなんて、その辺の計算も、
ちゃんとしているわよ、きっと」


千晴の言葉に、浩美は『そういうものかしら』といただきもののクッキーを取り出し、

皿の上に乗せ始めた。





「『宮崎あずさ』と言います。
以前は、『アカデミックスポーツ』の通販事業部にいました。その前には、
群馬にあるジムで、受付もしていました。これから、よろしくお願いします」


あずさがあらためて『ザナーム』の本社、府川に向かうと、

今月いっぱいで退社を決めた小原と、ほたるが嬉しそうに出迎えた。

『ザナーム』の社員数名も、拍手で受け入れる。

あずさは大きく息を吐き出すと、しっかりとお辞儀した。


「いやぁ……また3人の時間が来ましたね」

「そうね、あと1週間だけれど」

「小原さんが来ればいいんですよ、引っ越すまで、これからも」


ほたるは、まだ時間があるでしょうと、小原を肘でつつく。


「あら、忙しいのよ。荷物も作るし……でもね、ほら、休みの日、
荷造りしようと本棚から本を出したら、『ケヴィン』の漫画を出してしまって。
『バラの庭で会いましょう』。気付くと読んでしまったの」


小原は、女は目の前に出てくるものに弱いわよねと笑ってみせる。


「1週間で、小原さんの仕事が覚えられるでしょうか、私」


あずさは、花輪に負けないためにも、ここはしっかり引き継がないとと気合を入れる。


「大丈夫よ。『アカデミックスポーツ』のことを、誰よりも考えてくれた宮崎さんだもの。
出来ないわけがない」

「そうですよ、お茶を入れる時間とか、お茶菓子を買いに行く時間とか、
小原さんが慌しくしていたのは、そこが大きいですし」

「やだ、言うわよね、ほたるちゃん。否定できないけど」


3人は笑いながら、ランチの場所に向かう。

あずさは、『BEANS』の社員食堂に向かっていた日々を思い出しながら、

二人の後を追っていた。





「玉子さん……」


あずさが、新たな一歩を踏み出したその日、

『青の家』では、庄吉がロッキングチェアに座り、暖かい日差しを受けていた。


「……それから一郎さん。ひ孫のあずささんは、
『アカデミックスポーツ』の仕事に戻りましたよ。
『ザナーム』という企業の中ではありますが、柴田社長親子が、
築き上げてきた時間を、しっかり残そうと奮闘してくれるそうです」


庄吉の言葉に合わせて、椅子はゆっくりと揺れ続ける。


「梅子。君にも長い間、寂しい思いをさせているが、もう少し待っていてくれ。
私たちの孫の岳は、必ず、あずささんを幸せにすると思うから……」


『就職が無くなったタイミングで、流されるようになるのは嫌だ』という

あずさの気持ちを岳から聞きだし、庄吉は何度も頷いた。

それでも、岳とあずさの誓いの日は、それほど遠くなく来ると感じ、空を見上げてみる。


「もう、語りつくしたし、伝えつくしたと思っているけれど、
この世界にしぶとく残っているのは私だけなので、もう少し頑張って、
二人の幸せな姿を、見届けてみたいなと思っているからね」


部屋から見える海の様子は、穏やかだった。庄吉は『ふぅ』と息を吐く。


「梅子のおかげで、武彦が生まれて、岳が生まれた……玉子さんと一郎さんのおかげで、
その岳に、あずささんという素敵な娘さんが寄り添ってくれることになりそうです。
私たちの縁は、これからもっと、もっと深くなりますから」


庄吉は小さく頷きながら、暖かな日差しの下でゆっくりと揺れ続けた。







あずさが『アカデミックスポーツ』の仕事をするようになってから、

2ヶ月が過ぎた。秋だった季節も、すっかり冬の色となり、

『BEANS』の前で生まれ変わった『Sビル』が、その姿を完全に見せるようになる。

今までは外側だけだった仕事が、内装や電気工事など、より細かいものに代わりだした。



毎日畑に向かう耕吉は、窓から顔を出し、外の冷たい空気を感じ、

今までよりも1枚多めに服を着た。居間で食事をする友華に気づき、

その前に座る。タバコをポケットから取り出すと、灰皿を探して前に置いた。


「友華」

「何?」

「あの、ほら、元気な友達はどうしているんだ」


友華はそれがすぐにあずさのことだとわかり、『元気だよ』と口にする。


「近頃、一緒に帰ってこないだろう」


耕吉は、ケンカでもしたのかと友華を見る。


「あずさちゃんは『府川』の本社勤務になったの。
以前勤めていた『アカデミックスポーツ』の担当に戻ったから」

「『アカデミックスポーツ』」

「そう。子供から大人まで、水泳とか、ウエイトトレーニングとか、
器械体操とか、色々とやっているジムでね。元々は、群馬の実家にいたとき、
そこに勤めていて、それで東京に来たのよ」


友華は、あずさが頑張って仕事をしているのだと、耕吉に説明をし始める。


「自分が受付をしていたから、こうしたらいいのではと思ったことを、
すぐに実行してしまうんだって。ジムはほとんどが経営者を別に持っていて、
本社は管理のみだから。結構、臨機応変に対応してもらえて、楽しいって」


友華は、この間も少し早めに家を出て、一緒の電車に乗り、

『岸田』までの3駅分、色々話したと箸を動かしていく。


「それなら後でメールをしておくね、今度のお休みにはうちにおいでって。
おじいちゃんが顔を見たいって言っているよって」


友華はそういうと、『そうだよね』と耕吉を見る。


「そんなことは言ってない」


耕吉はタバコを消すと、居間から玄関の方へ向かう。


「まぁ、近いのだから、顔を出したければ、勝手に出せと言っておけ」


耕吉が扉を開けて出て行くのを見ながら、友華は『はい』と笑顔で返していた。



【56-4】



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