6 強がりの代償

6 強がりの代償

映画館に通わなくなって2回の水曜日が過ぎ、大学は夏休みに入った。

学生がいなくなっても事務局の仕事はなくならず、静かな校舎の中で毎日を過ごす。

立ち入り禁止の屋上に上がり、少し錆びているベンチに彼の足を探し、

コンクリートの階段の上で、聞こえる声はないだろうかと、耳を澄ませた。


突然、映画館に姿を見せなくなった私を、広橋君はどう思っているだろうか。

それとも、そんなことはすでにどうでもよく、バイトや就職活動に明け暮れているのだろうか。

会わないと決めたくせに、会えないと、ただ、彼のことだけが気になった。





「垣内さん、これ頼みます」

「はい……」


登録を終えた書類の箱を、奥にある倉庫へ運ぶため、小さな台車に乗せ動かし始める。

こんな夏休みに残業をする職員はいないため、私も自分の荷物を持ち事務局のカギを締めた。


カタカタと揺れる音を聞きながら、廊下を進んでいくと、

カツンと小石が壁に当たる音がして、一瞬動きが止まる。

誰かいるのかと思い左右を確認するが、人の姿は見えず、荷物を崩さないように、

またゆっくりと進んだ。


曲がり角にさしかかる寸前、私の口はいきなり覆われ、そのまま引きずられるように戻された。


「手をあげろ!」


私の口を覆ったまま、校舎入り口の鏡に映っていたのは、広橋君だったが、

あまりに突然の出来事に私の足は震え、文句も口から出てこない。


「あ……まずかったかな?」

「……」

「敦子さん?」


私の口から彼の手が離れ、乱れた呼吸を整えるように何度か深呼吸をする。

人の複雑な気持ちも知らないで、目の前にいる広橋君は、いつものように明るい笑顔だった。


「お久しぶりです。どうしたんですか? 近頃、来ないけど」


どう何を説明したらいいのかがわからず、私は台車の前に戻り、

何事もなかったかのようにまた、引き始める。


「敦子さん、こんなことくらいで怒るなんて、思わなかったな」

「こんなところで何してるの、広橋君。夏休み中じゃない」

「あなたに会いに……」


あまりにも素直な言葉に、耐えている自分が惨めに見えた。

どうにかして、彼を目の前から消さないと、私はまた、泣き出しそうだ。


「もう、映画館には行かないから」

「どうして?」

「買ったチケットも終わったし、それに……。ねぇ、広橋君も気付いてるんでしょ? 
変な噂になっていること」


明るかった彼の表情が、初めてそこで曇りを見せた。現実を見つめるべきなのだと、

私は自分自身に言いきかせ、話し続ける。


「私は事務局の人間で、あなたは学生なの。変な噂を立てられてたら、
お互いに損するばかりじゃない。あなたは就職活動、私は仕事。
だから、そんなふうに誤解されるような行動は、慎んだほうがいいのよ。
ごめんなさい、年上のくせに、私に常識がなかったから、こんな……」

「誤解? 誤解って何?」

「だから……」

「僕があなたを好きなことは、別に誤解でもなんでもない。
あなたを好きになることは、何か問題でもあるんですか?」

「あのね……」


広橋君は私の頬を両手で挟み、反論をしようとした唇を塞いだ。

大学の校内という、あまりにも危険な場所での行為に、私は必死に抵抗をする。


「どこだと思ってるの?」

「別にどこだって構わない」

「子供みたいなことを言うのはやめて。あなたの就職の邪魔をしたくはないの。
一番大事な時期なのよ、こんなことをしている場合じゃないでしょ」


校舎の反対側を、用務員さんの歩く姿が見え、私は慌てて影に身を隠す。


「経済学部の坂本が、僕たちが映画館から出て来たのを見たって騒いだ。
だから、それは間違いないってそう言った。たいした広さじゃないから、
知っている顔を見つけると、声をかけられるくらいなんだって」

「坂本君……」


経済学部の同じ3年生で、背が高く、少し猫背の男の子だった。

具体的な名前を出され、その噂が本当に流れたのだと、自分で確認する。


「言いたいヤツには言わせておけばいい。僕は構わない……。自分のしている行動が、
間違っていると思ったこともないし、あなたを好きになったことを、後悔したこともない」


広橋君は、また私の方を真剣な表情で見た。目をそらすだけで精一杯になり、

何も言い返せなくなる。どこか力の抜けていた私の体を、広橋君は自分に引き寄せ、

また唇を塞ぐ。


いいように操られている気がして、私は怒りのまま彼の頬を叩き、拳で胸を叩く。


「何考えているのよ。何でも思いのままに行動すればいいってものじゃないわ。
あなたはそれでいいかもしれない。でも、私のことも考えて!」

「……」

「そんな噂が大きくなったら、私、仕事を辞めないとならないの!」

「敦子さ……」

「名前で呼ばないで。そんな関係じゃない」


考えてもいないセリフが、どこからか堰を切ってあふれ出す。

もう、何を言おうがどうでもよかった。私は広橋君を受け入れてはいけない。

そのために、心の中に、思い描いたこともない言葉で、必死に戦い続ける。


「私にはこの仕事の方が大切なの。失いたくないの! 妙な噂を立てられるのは、
私が迷惑なの。もう、いい加減にして!」


あなたなんてどうでもいい。自分を守りたいのだと、

私はその場で考えついたことを言い切り、すぐに下を向いた。

顔を合わせればまた、彼のペースに持って行かれてしまう。

何秒かの沈黙がそこにあり、広橋君は私が運ぶ台車に乗せた荷物のズレを、軽く直した。


「迷惑……なんですね」


迷惑だと念を押さなければならないが、その一言だけはどうしても出せなかった。

黙っている私の気持ちを、どうか察して欲しい。


「すみませんでした……」


どこからも何も響かないような、たった一言を残し、彼は私の横を通りすぎる。

自分で仕向けたとはいえ、これでもうあの時間が持てなくなるのかと思うと、

心に穴があいたような気になった。





その年の夏休みは、いつもより長く実家に戻り、姉が連れてきた繭と、触れあった。

一人でいると、考えてしまうことはいつも同じで、現実から逃れたい一心で、

私は何かをし続ける。掃除でも、買い物でも、洗濯でも、

広橋君を忘れていられることだけを、いつも考えた。


携帯を開くと、友達や先輩、職場の仲間などの番号がズラリと並んでいる。

一番声を聞きたい人の番号は、何も知らなかった。

私にとって彼と話せる唯一の場所が映画館で、拒絶してしまった今、

二人をつなぐものは、なにもない。


「敦子、どうなの? そろそろ相手くらい連れてきなさいよ、ねぇ、母さん」

「そうよね……」

「いいでしょ、ほっといて」


幸せに浸っている姉は、容赦なく私の心を刺してくる。

そんな母と姉の問いかけにプイと横を向いたまま、私は東京へ戻った。





何日か開けていなかった窓を開け、外の空気を入れる。

ずっと閉じられたままのピアノの蓋をあげ、同じように空気を入れた。



『思い出があるんですね……』



父はショパンをよく弾いた。そんな父が愛した曲を、広橋君はどこで覚えたのだろう。

あの時は弾いてくれた感激だけで、何も聞けなかった。


私は右手と左手で、基本的な和音を押してみる。

ショパンが作ったピアノ曲の中でも、『革命』は難しい楽曲だ。

スピードは確かに完璧とは言えなかったが、冗談で弾けるようなものではない。

聞いてみたいそんな質問も、もう、本人に聞くことはないだろう。

自分のため、何よりも人生を進み出そうとしている彼のため、私は正しい選択をしたはずだった。


それでも、涙があふれて、あれから気持ちは一歩も前へ進まない。



『僕もあなたを愛しています』



失ったものの大きさに、自分の小さな心がたたき割られた気がして、

また、自然に涙が重なった。





駅前のスーパーで買い物を済ませ、歩いてきた道をゆっくり戻る。

下ばかり向いていた顔を上げると、20メートルくらい前を歩く背の高い男性の後ろ姿に、

私の心臓が大きく音を立てた。


広橋君だ、そう思った瞬間から私はただ、前だけを向いて走り始める。

そう、彼は私の部屋を知っている。なんだかんだ言っても、

どうしても会いたい気持ちだけは抑えられなかったのだと、

買い物袋を持っていない右手を伸ばし、その背中に触れた。


「何か?」

「あ……」


完全なる人違い。突然背中を叩かれた男性は怪訝そうな目で私を見た後、

また背を向けて歩き出した。すみませんと一言だけ口にした後、頭を下げた私は、

その頭の重さに、しばらく動けなくなる。


私だけがこんなに苦しくて……

私だけがこんなに会いたいのだろうか……


頭ではわかっているつもりだった。

それでもどこか、彼が私を引っ張ってくれるという、勝手な想いもあった。



『すみませんでした……』



あの冷たい一言を最後に、彼の中から私はさっぱりと消えてしまったのだろうか。


想いの深さの違いに、砕かれ灰になった心が、風に吹き飛ばされていき、

私の中には何一つなくなった。





7 心の距離 へ……




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コメント

非公開コメント

想いの深さに気がついて…

こんばんは…

敦子さんの強がりに、広橋君もさすがにめげて…
彼女に迷惑をかけないようにって引いてしまったのね…。

>想いの深さの違いに、砕かれ灰になった心が、風に吹き飛ばされていき…
敦子さんの心の空虚さが
ほんとに切なく伝わってきます…;;

二人とも、相手を求める心は同じだと思うから…
心のままに素直になって欲しいなぁ…
会えない時間が…愛を育ててるよね~

やっぱり広橋君が、アパートに来てくれると良いんだけど…;;

お互いを・・

蓮を守りたい、小さな幸せを捨てても良いと思うほど。
でも『会いたい! 会いたい!』

蓮もきっと、敦子を傷つけたくない。仕事を奪うわけには行かない。
自分の思いのままに進んでは行けない。その事の辛さを味わっていると思う。

深さは同じはずなのに

eikoちゃん、こんばんは!


>敦子さんの強がりに、広橋君もさすがにめげて…
 彼女に迷惑をかけないようにって引いてしまったのね…。

応えてくれていたはずの、敦子の変化に、蓮も戸惑いがあるのでしょう。
しかし、このまま! には、なりませんよ。


>二人とも、相手を求める心は同じだと思うから…
 心のままに素直になって欲しいなぁ…

ねぇ……結局はそこが一番大切だと思うんですけど。


>やっぱり広橋君が、アパートに来てくれると良いんだけど…;;

さて、来るでしょうか、蓮君は……

本音は……

yonyonさん、こんばんは!


>蓮を守りたい、小さな幸せを捨てても良いと思うほど。
 でも『会いたい! 会いたい!』

今の敦子は、心と頭がバラバラの状態だと思います。
本音は会いたい……でも、それは許されない、と思い込んでいる。

そう、蓮の気持ちは出てきてませんが、ならばいいですよ、と
簡単に割り切っているはずもなく……

さて……

切ないですが……

yokanさん、こんばんは!


>(T-T)・・・・辛くて、切ないね~・・・
 このままってことはないよね、広橋君はどうでるんだろ~・・・

敦子の気持ちの変化に、蓮が気付けるのか、それとも蓮は気持ちを切り替えてしまうのか、
それは続きを待ってくださいね。

いつも、ありがとうございます。