7 心の距離

7 心の距離

夏休みが終わり、また大学に学生の声が戻ってきた。

休み明けは手続きの書類などを出す人が多く、事務局は忙しくなる。

昨日まで提出されていたものの処理を終え、書類を閉じていると、

カウンターの向こうから、聞いたことのある声が響いた。


「すみません、これお願いします」


滝川さんは、手に持っていた用紙を私に向かって軽く振り、カウンターの上に置いた。

以前、私が広橋君と映画館に通っていたのを知った時には、キツイ目をして見ていたのに、

今日はどこか晴れやかに見える。


「一緒に作っておいて下さいね、帰りに取りに寄りますから」


彼女が重ねて出してきたのは、広橋君の書類だった。

見慣れた文字を見ながら、不備を確認するふりをして、私はその影から、

事務局のドア横の壁に寄りかかっている彼の方を向く。


書類を提出する時は、会話が出来るチャンスだった。

以前なら、人任せなど絶対にしなかったことなのに、気付いて欲しいと念じても、

私の視線は、彼を呼び込む力などなく、広橋君は手に持っていた本から、

目をこちらに向けることは一度もなかった。


「わかりました、帰りに寄って下さい」

「はい……」


滝川さんは小さく頭を下げると、扉を開け、当然のように広橋君の腕を取った。

友達としての行為なのかもしれないが、私には所有権を主張するような、そんな態度に見え、

さらに気持ちが落ち込んだ。





内線を使って、雪岡教授から電話が入ったのはお昼少し前で、

私は大学近くの店で売っている、大好きなジャムパンをお土産に、研究室へ向かった。


「先生、お昼食べました?」

「ん? お! ジャムパンじゃないか。さすが敦子はわかってる」


教授は嬉しそうにパンを受け取り、袋を開けると、その香りに鼻を近づけた。

そんな仕草が妙におかしく、私は笑いをこらえる。

夏休みが明けてから、きちんと話すのは初めてで、話題は家族のことになった。


「そうか、繭が行ったのか。初孫だからな、愛子さん喜んだだろ」

「はい、一日中抱っこして、ほっぺたにキスばかりしてました。
姉もしばらく母のところにいて、羽を伸ばしたようですし。
育児は大変だって愚痴ばっかり聞かされたけど、でも、とても幸せそうで……」

「そうだろうな。修一も見たかっただろうに、涼子の子供……」

「……だと思います」


父が亡くなってすでに18年が経ち、家族をのぞいて話題にあげてくれる人は、

雪岡教授と残り少ない人だけになった。こんなふうに時々、父に触れてくれるだけで、

私の数少ない思い出は、鮮明によみがえってくる。


「うん……うまいな」

「そうですか? よかった」


ジャムパンに満足そうな雪岡教授の部屋は、相変わらず本だらけだったが、

夏前に訪れた時と、積み上げ方が変わっていた。


「先生、この本どうしたんですか? 前と積み上げ方が変わりましたね」

「あぁ、さっき広橋と滝川がここへ来て、資料を貸してくれとか言いながら、
崩していったんだ。あいつら全く、役に立たないくせに、邪魔だけは倍だ」


広橋君がまた滝川さんと一緒だった事実を聞き、心にチクリと針がささった。

自ら遠ざけたくせに、私の心はどうしようもないくらいあきらめが悪い。


「先生、私に用事ってなんですか?」


これ以上、二人の話を聞きたくなかった私は、すぐに話題を変えた。

どんなに難しい経済論でも、あの二人の話題よりはましだ。


「あ、そうだ、そうだ。敦子、青嵐堂の福本君、わかるだろ」

「福本さんですか? はい、わかります」


大学に出入りしている備品関係の業者『青嵐堂』の営業マンが、福本さんだった。

背が高く、大学時代はラグビーをやっていたのだと、何度か立ち話をしたことがある。


「お前が気に入ってるらしい……。先生、間に入ってくれませんかと、相談された」

「エ……」


以前から私に好意を持ってくれた、福本さんからの誘いだったが、

私はうつむき黙ることしか出来なかった。広橋君への気持ちは止めなければならないが、

だからといって、すぐ別の人に、その気持ちが動くようには、とても思えない。

困ったような表情が伝わったのか、ジャムパンを食べ終えた雪岡教授は立ち上がり、

小さな冷蔵庫から、缶コーヒーを2つ手に取り、一つを私に差し出す。


「敦子は正直者だな、そんな話は無理なんですって顔に書いてあるぞ」

「……先生……」

「広橋には、まだ会ってるのか」

「いえ……」


私はしっかりと否定し、あれから映画館に顔を出していないことも告げた。

彼のマイナス要因になりたくなかったのだから、変な誤解をされては困る。

彼と私は何も関わりがない人間なのだと口では言い続け、そんな自分に心だけが泣いた。


「そうか……」


雪岡教授はそれ以上、何かを聞くことなく、プルを開けコーヒーに口をつけた。





放課後、学生から問い合わせがあり、私は第一講堂へ向かった。

右ブロックの真ん中くらいの場所で、学生証を落としてしまったらしく、

300人は入る広さなので、探すのに大変かもしれないなと考えていると、

真ん中の椅子に広橋君と滝川さんが並んで座り、なにやら資料を作っていた。


楽しそうに笑いながら話す滝川さんの横顔に、そのまま入っていく勇気が持てず、

私が扉を叩き、自分の存在を示すと、二人が一緒に振り返った。


「ごめんなさい、忘れ物があるっていうから、探しに来たの」


別に悪いことをしているわけでもないのに、私はおどおどしたまま、

彼らと顔を合わすことすら出来なかった。

広橋君がこれ以上、滝川さんと一緒にいることを認めたくない気持ちが、私の動きを制御する。


「何を探すんですか?」

「あ……あのね、学生証なんだって。右ブロックの真ん中だって……いうんだけど」


不機嫌そうな滝川さんの言葉が、私をさらに追い込んだ。

邪魔だといわんばかりの視線が、容赦なく背中にささる。

私だって、あなたたちを見ていたくはない。

簡単に探すふりをして、すぐに出て行かなければ……。


「蓮!」


滝川さんの呼び声に視線を向けると、何も言わずに立ち上がった広橋君が、

私の方へ1歩ずつ近づいてきた。

一緒に探してくれるつもりだろうと思った私は、大丈夫だからと断ったが、

それでも彼の歩みは止まらず、顔を合わせなくてすむようにしゃがみ込む。


姿勢を落とし、つながっている椅子の影に隠れていると、反対側から広橋君も近づいてきた。


「ありませんか?」

「うん……」


その瞬間、左右に視線を動かしながら、近づいてきた彼の左手が、

目の前にあった私の右手をぐっと握りしめた。

その懐かしいぬくもりは力強く、引き抜こうとしても動きが取れない。

何も言わないくせに、目だけはしっかりと私の方を向いている。

その真剣さが怖くて、私は腕を引こうとしたが、彼の力は強く、少しずつ引き寄せられた。


鼓動が速まり、視線をどこに向けていいのかもわからない。


そんな自分に気付かれたくなかった私は、唇に触れようとした彼の顔をよけるように下を向く。


「ないみたいね……」


広橋君の右手が私の頬に触れた瞬間、滝川さんの声が響いた。


「蓮!」


その声に、一瞬、広橋君の腕をつかむ力がゆるみ、私はすぐに手を引いた。

視線を彼に向けると、目は寂しく揺れ、唇はしっかりと噛みしめられている。

私はすぐに立ち上がり、彼から距離を取り背を向けた。


広橋君が、私の手を掴んだのはなぜだろう。

あのまま抵抗しなければ、間違いなく唇が触れたはずで、滝川さんと一緒にいるくせに、

私の迷いに気付き、反応を見たのかもしれない。


「蓮、何してるの、終わったから行こう。上松教授に渡さないと」

「あぁ……」


滝川さんの言葉が、見て取るようにきつくなった。仕事をしているだけなのに、

私一人が惨めになる。


「垣内さん、カギ、ここへ置いておきますので、閉めてくれますか?」

「……あ、うん……」


滝川さんはそう言うと、出来上がった書類の束を広橋君の両手に乗せ、

その他の文具を自分が手に持ち、私の目の前を歩き出す。


「それじゃ、失礼します」


広橋君に近づくなと訴える強い目で、滝川さんはもう一度私に念を押した。


「さようなら……」


出来る限り冷静な口調で、私も返事をした。

何秒か遅れた広橋君も、同じように私の前を通過しようとするが、

視線はこちらへ動くことなく下を向いている。


「広橋君、さようなら……」

「……」


その挨拶に、聞こえてくるはずの彼の返事は何もなく、私は夕焼けが入り込む講堂に、

たった一人残された。





なんとかなると思っていたのに、彼を目の前にすると、ただ泣きたくなる自分がいる。

彼の顔が近づき、唇が触れそうになった時、息が出来なくなるくらい、鼓動が速まった。

気持ちのコントロールなど、時間が経てば自然に出来ると思っていたこの2ヶ月間は、

結局、彼を愛してしまった事実だけを、私に突きつけた。


あなたの邪魔にもなりたくない、でも仕事も失いたくない。

そう思って広橋君との距離を自ら作ったくせに、結局、何も出来なかった。


こんな気持ちを整理するには、今の仕事を辞めるべきなのではないかと、

思い始めた私は、部屋へ戻り荷物を降ろし、真っ白な便せんを広げる。


彼の声が聞こえない場所へ行き、何もかもを忘れたい……。


その時、玄関のインターフォンが鳴り、私は視線を移した。


「はい……」


宅配なら名前を名乗るはずで、新聞の勧誘なら何か言い始めるはずだった。

声は全く聞こえずに、またインターフォンが鳴る。私は、心臓を落ち着かせながら、問いかけた。


「……どちら様ですか?」


何秒かの沈黙が流れた後、扉の向こうから運命の声がした。


「広橋です」


その言葉に、私はしばらく動けなかった。





8 触れあう心 へ……




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コメント

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辛い時期・・・

ももちゃん 深いお話に、やはりあちらではコメントできず…。
一週間、私も悶々としてました~^^;

二か月もこんな辛い思いをしてる敦子さん…
広橋君と滝川さんが二人でいるところなんて…もう見たくないよねToT

でも、仕事を辞める決意をしたほどなら…
敦子さん、逆に自分の想いに素直になればいいのに…。
頑なになってる彼女には、まだ無理かなぁ?

やっぱりアパートにやってきた広橋君…。
君もまだ、迷いの中にいるのかもしれないなど…。
彼女の凝り固まった心を、なんとか溶かしてあげてね!!

でも、なんで広橋君
いつも滝川さんと一緒にいるの?
敦子さんがだめなら…彼女でもいいやって思ってるの~?
彼の真意を…聞いてみたい…。

お見合い

蓮・・・貴方のしてること大人気ないです。
部屋は知られてるから当然来るだろうと思っていたけど、それにしては遅い気がする。

敦子さん、雪岡教授の話、受けてみたら?
蓮がどう出るか、試すのは良くないかもしれないけれど・・・・
そうな風に考える私って嫌な奴?

さらにここから……

eikoちゃん、こんばんは!


>ももちゃん 深いお話に、やはりあちらではコメントできず…。
 一週間、私も悶々としてました~^^;

悶々としてたんですか? あらあら……
深いお話になってます? まだまだ本題はこれからなんですよ……
(って、みんな思い切り、引いちゃいそうだ・笑)


>でも、なんで広橋君
 いつも滝川さんと一緒にいるの?
 敦子さんがだめなら…彼女でもいいやって思ってるの~?

この話は1人称で、敦子側の気持しか書いてません。
敦子の目に映るのが、そのシーンだけであって、ずっと一緒ではないんですけど、
そう思えてしまうくらい、敦子の心が沈んでいるんでしょうね。

さて、蓮の思い、それは次回語りますので、
聞いてやってくださいませ。

見えないもの

yonyonさん、こんばんは!


>蓮・・・貴方のしてること大人気ないです。
 部屋は知られてるから当然来るだろうと思っていたけど、
 それにしては遅い気がする。

敦子の気持ち、読み手にはしっかりと伝わっているのですが、
側にいけない蓮には、わからないことも多く。
遅くなったことも重々承知で、やってきました。


>敦子さん、雪岡教授の話、受けてみたら?
 蓮がどう出るか、試すのは良くないかもしれないけれど・・・・

さて、蓮の登場でどうなるのか、
さらに二人の気持ちがずれるのか、重なるのか。
それは続きを!
……で、どうでしょうか。

蓮の行動

yokanさん、こんばんは!


>やっと行動を起こすか、広橋くん!

あはは……はい、行動起こしてみました。


>椅子の影に隠れているシーンが、
 映像として映画のワンシーンのように
 脳裏に浮かんできました、切ない(T-T)

シーンが浮かぶと言ってもらえるのが、とても嬉しいです。
この切なさを越えられるのか、は、蓮の行動にかかっています。

それぞれの気持ち

mamanさん、こんばんは!


>広橋君のために良かれと思って距離を置いたのに
 自分がドツボにはまってもがいてる。

むなしい気持ちが、さらに敦子をどんよりさせています。
敦子の方が翻弄されているように見えるのは、語りが敦子……で、
蓮の気持ちは見えてこないからかもしれないですね。

菜摘、ちょっと嫌な感じですが、恋に対しては、みんな真剣なのです。

さて、蓮の登場、流れは変わるのか……それは次回で!