3F わかる女とわからない男 ①

3 わかる女とわからない男

3F-①


彩希の視線は、そのパンフレットに動く。

すると、冬馬が自分のカップと彩希のカップをテーブルの端に寄せた。

彩希は追いやられたカップを見たあと、広くなったテーブルを見る。



『どんな頑固な汚れでも、パワフル、ミラクル』



小さなペンキ缶のような容器の写真が、パンフレットには載っていた。

冬馬は、専用のスポンジを使い汚れをこするか、スプーンですくったものを、

ぬるま湯に溶かして使うのだと説明しながら、

何やら試供品と説明の紙をテーブルに並べ出す。


「これ、本当に落ちるんだぞ。油性マジックの汚れとか、ガスレンジとか、
風呂場の水垢とかさ」


冬馬は、お試し用と書かれた小さな袋を彩希に差し出した。


「使ってみてくれ。もちろんお金はいらない。おばさんきれい好きだし、
役に立つからさ」

「……うん」


冬馬は、1ヶ月前から、この『ADB』という会社に入り、

この商品を扱っていると教えてくれた。


「この5万は、初めての給料から返却したんだ。な、俺、変わっただろ」


冬馬は、さらに名刺も取り出し、彩希の前に置いた。

確かに会社の名前もあるし、それなりの住所もあった。

ガソリンスタンドの頃と違い、正社員だということはわかる。


「正社員なんだ」

「あぁ……」

「そうか、よかったね、仕事見つかって」


『正社員』という響きが、彩希の硬くなった気持ちを、溶かし始めた。

冬馬がここから一歩、自分で歩き出すのだと思うと、嬉しくさえ思えてくる。


「ちょっとした偶然があってさ、こうなった。まぁ、これが縁だと思うし、
これから頑張るつもりなんだ」

「うん」


彩希にとって、冬馬は色々な部分を互いに知っている、妙な安心感がある相手だった。

ずるいところも、ダメなところもわかっているけれど、

それを笑い飛ばせてしまうような、不思議な時間が流れ出す。


「残りは来月、必ずな」

「うん」


冬馬は、彩希に門前払いされるのではないかと考え、

本当はとても緊張していたと、笑顔を見せる。


「お金を貸しているんですから、返してくれるまでそっぽ向けないでしょ」

「おぉ、そうだよな」


冬馬はそういうと、一度軽く咳をする。


「あのさ、彩希。実は……ちょっと頼みがあってさ」


冬馬の言葉に、それまで笑っていた彩希の表情が、一変した。





彩希が冬馬と向かい合っている頃、拓也は最寄り駅で降り、

コンビニに立ち寄ると、よく買うお酒とつまみを買い込んだ。

駅から徒歩2分になる、オートロック式のマンション。

鍵を差し込み、扉を開けるとエレベーターに乗る。

4階で降りると、そのまま一番角に向かい、今度は部屋の鍵を開ける。

広めのリビングに入る前、鍵を決まった場所に乗せると、自然にライトがついた。

スーツの上着を脱ぎ、ソファーの背もたれにかける。

とりあえずビールの缶を開け、飲みながらハンガーに服をかけた。


「ふう……」


拓也はそのままソファーに深く腰かける。



『言いたいことを、言えばいいってものじゃない』



今朝、小川がつぶやいた言葉が、頭をよぎった。

確かに、『木瀬百貨店』に入社してから、

拓也は、自分の思いや考えをつぶすことなど一度もなく、

『企画』というものを求められている以上、『引いてしまうこと』は、

逃げていることだと思って仕事を続けてきた。

芳樹は『戦闘態勢』と表現したが、相手が上司だろうが、

チャレンジする気持ちを忘れてしまっては、結局、全体の士気が下がる。



『いいか。言いたいことを言うのはこちら側だけだ。
現状を納得させる、それが大事だろ』



拓也は、数年前に言われた言葉を、思い出す。

なぜなのか、どうしてなのかなど、当時は考える気持ちにさえならなかった。



拓也はしばらくビールを飲み続け、

空になった缶を、左手でクシャッと握りつぶした。





「冬馬の気持ちはわかるけれど、私には無理だよ」

「無理? どうして」


冬馬が彩希に頼んだのは、『KISE』の中で、

実演販売のチャンスがもらえないかというものだった。

今でも、『ADB』は、いくつかの店でやっているが、

地方のスーパーや商店街の隅などで、規模が小さく客が集まりにくいため、

なかなか売り上げが伸びないと、そう言い始める。


「『KISE』ならさ、知名度もあるし、客の数も田舎のスーパーとは違う。
もちろん無条件に出させろと言っているわけじゃないんだ。
担当者たちに商品も見せるし、俺の実力もわかってもらう機会が欲しいんだよ。
な、頼むよ彩希。チャンスなんだ」


『チャンス』

彩希はまたこの言葉を聞くことになった。

言葉も意味が重いこともわかっているので、ため息をつく。


「冬馬、本当に私、本部の人たちのことは、ほとんど知らないの。
知っているのは、地下の食料品売り場で、お菓子の入荷担当をする人たちだけで」

「その人たちから、話、あげてもらえないかな。きっかけ作りだけなんだ。
その後は、俺がちゃんとやるからさ」


冬馬は彩希の顔の前で、両手を合わせ、拝むようなポーズを取る。

彩希は、冬馬の訴えに、結局、また断ることが出来なかった。





「あらまぁ、河西君、これを販売しているの」

「うん……」


彩希は家に戻ると、冬馬からもらった『パワクリン』を佐保に渡した。

佐保は、母として彩希と冬馬の付き合いも知っていたが、

二人が別れたときも、深い理由は聞かなかった。

彩希も、『お金』の貸し借りについては、やはり家族に話せず、

性格的に無理だったと、話すだけになっていた。


「河西君、再出発、出来たらいいのにね」

「うん……」


佐保は、冬馬がただ報告に来ただけだと思っていたが、

目的を知ってしまった彩希は、正直、気持ちが重かった。

彩希は、食品売り場にいるだけだが、『KISE』に関わる社員がどれだけいるかも、

社員食堂の広さを見ればわかるし、しかも、菓子売り場にいる契約社員の頼みなど、

本部の人間が取り扱うことはないことも、十分わかっていた。

しかし、何もしないままバツを出すのは、冬馬にも失礼だと思い、

当たって砕けることも承知で、とりあえず契約社員たちをまとめるチーフの男性に、

明日、話をしようと決め、その日は眠りについた。





通勤ラッシュに揺られて、拓也はいつもの時間に改札を出た。

そのままコーヒーを買うため、いつもの店に入り、ふと前を見ると、

ブレンドの種類が『モカ』と表示されている。


「何になさいますか」

「ブレンド」

「はい、かしこまりました」


お金を払い、カップを受け取ると、拓也は店を出る。

すぐにコーヒーを口に含むと、2、3歩進みながら飲んだ。


「『モカ』も『キリマンジャロ』も、俺にはわからないって……」


横断歩道に近づき、なにげなく横を見ると、少し離れた場所にエリカが見えた。

エリカは拓也に気付き、顔を向けると、軽く笑みを浮かべ会釈する。

拓也も返礼だけすると、歩道の信号を見る。

赤のラインが一つずつ減っていくのを、頭で数えながら待ち続けた。



3F-②




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