36F 新しい朝 ③

36F-③


それから彩希は、毎日『KISE』の売り場に立つことになった。

細かい事情を、あれこれ語るのは必要ないとチーフに言われ、

特に大げさな挨拶などしないで、そのまま抜けようと考える。

入社した頃からの付き合いがある恵那も、彩希の突然の退職に驚く顔をしたが、

まつばのフォローと、父親を探すという理由に納得し、

明るい顔で送り出すことを約束してくれる。

いつも彩希に面倒な用事を頼んできた高橋や竹下も、

『拓也との結婚』ではないのかと、何度も疑いのまなざしを見せたが、

それは違うことをやっと納得した。


「ねぇ、バタちゃん」

「はい」

「『伊丹屋』でいい話があったら、他の人はともかく、私には遠慮なく連絡してね」


竹下は、高橋がいない隙にそう彩希へ声をかける。

彩希はどう答えていいのか迷いながら、笑顔を浮かべてごまかした。

包装紙を折りながら、彩希の視線は自然と前を向く。

10日後に控えた『キセテツ味の旅』に関するレイアウトが最終決定し、

今日は武と拓也が、売り場のチーフと確認作業をしていた。



『こんな形になってしまって、ごめん……』



耳元に優しく届いた台詞と、確かな腕の力の感覚が、彩希の中によみがえってきた。

以前、冬馬に聞かれたとおり、彩希は自分が拓也に対して、

同僚や上司とは違う気持ちが芽生えていることを、素直に認めるようになる。

『福々』を閉店に追いやった事件について、何もかも忘れたわけではないが、

彩希が『伊丹屋』に行くことを決め、それをフォローするために、

メンバーの前で過去を語ってくれた拓也の優しさと強さに対して、

素直に言葉を受け入れることが出来た。

あの出来事があったからこそ、彩希の目の前にいる拓也は、

今のような人になっているのだと、考えられるようになる。


彩希自身は、最後に名前を呼ばれたとき、

『もう二度とこんな時間はない』という思いから、

外ではなく、思わず拓也へ足を向けてしまった。

それを受け止めた拓也には、自分と同じような思いはないだろうとわかっているけれど、

それでも、抱きしめてくれたかすかな感覚だけは、忘れたくないとそう思う。

これからも、この場所で輝いてくれるようにと、

彩希は拓也の背中を見つめながら、そう何度も心でつぶやいた。





そして、彩希の『KISE』出社、最後の日。


「今日も、しっかりとお願いします」

「はい」


売り場の担当者が全員持ち場に着き、オープニングの音楽が鳴る。

『KISE』の1日が、スタートした。

彩希は担当ブースに立ち、ケースの前に立つお客様に声をかける。


「何をお探しですか」


白髪の、品の良さそうな和服の女性が、彩希の言葉に振り向いた。


「えぇ……洋菓子をお土産にお持ちしたいと思っているのですが、
ケーキのように生クリームがたっぷりつくようなものではなくて、
少し日持ちするようなものは……」

「あ……はい」


彩希は女性を右手で案内し、売り場の方へ導いた。

『リリアーナ』もあるし、そのコーナーの端には『チルル』もある。


「まぁ、色々とあるのね」

「はい。お客様のニーズにお応えできますように、『KISE』では和菓子でも洋菓子でも、
色々な条件で選べるものを並べています」


白髪の女性は、彩希の説明を聞き始める。

お土産に持っていき、実際に食べる人がどれくらいの年齢層なのか、

日持ちと言っても、数日以上長いものになると、

クッキーやラスクなどに限定されること。

色合いや食感など、希望するところを、聞き出していく。

年配の女性は、彩希に希望を語り、数件の店を見ることになった。


「ありがとう……とっても満足」

「はい、ありがとうございます」


女性は、紙袋をのぞくと、納得するように頷いた。


「うちの主人はね、自分が漆器の職人なもので、色々とこだわりが多いのよ。
今日おたずねするお宅に、楽しんでもらえるように、
今まで持って行ったことがないものを選んでこいと急に言われて」

「そうでしたか」


彩希が顔を上げると、お客様の向こう側に、

拓也をはじめとした『第3ライン』のメンバーたちが揃って立っていた。

彩希は、打ち合わせにしては人数が多いと一瞬驚くが、すぐに客の方へ視線を戻す。


「これなら、主人にも納得してもらえる」

「……はい」


彩希は、メンバーの視線を感じながら、1枚のチラシを手にする。


「今度、この食料品売り場で『キセテツ味の旅』という催しものががあります」

「『キセテツ味の旅』……あら、そう」


女性はちらしを興味深そうに見る。


「この木瀬電鉄4つの沿線で営業しているお店に絞って、色々な味を揃えました。
ぜひ、また新しい味を、試しにいらしてください」


彩希の言葉に年配の女性客は、『わかりました、ありがとう』と頭を下げ、

駅の方へ向かい歩いて行く。

彩希があらためてメンバーの方を見ると、立っていたのはまつばと寛太、

そしてエリカになっていた。


「バタちゃん」


まつばは、今日は打ち合わせの続きに来たのだと、彩希に説明する。


「今、みんな揃っていなかった?」

「うん……広瀬さんと大山さんは、ほら、あそこ」


まつばの指を差した場所には、業者と最終的な打ち合わせをする武と拓也が見えた。


「あとのメンバーはね、今日が江畑さんの最終日だと知って、
あなたの勇姿を見ておこうとそう思い、抜け出してきたの」


エリカがそういうと、寛太とまつばは『そうだ』と頷いて笑う。


「勇姿だなんてそんな」

「そんなことないわよ。広瀬さんは最初に言っていたもの。
江畑さんの接客の態度を見て、この人は絶対に一緒に仕事が出来ると思ったって……」


エリカは、彩希の顔を見ながら、ふとこれからのことを口に出したくなる。


「あ、バタちゃん」

「うん……」


別の男性客が、彩希の少し先で迷っているような仕草を見せたため、

まつばが声をかけ、彩希も前に進む。


「いらっしゃいませ、どのようなものをお探しですか」


彩希はまた、売り場の中に戻っていく。


「バタちゃん、生き生きしている」

「うん……」


まつばと寛太のつぶやきに、エリカは『先に戻るわよ』と声をかけた。





「よし……」


彩希は仕事を終え、今まで使っていたロッカーを雑巾でしっかり拭いた。

鍵を閉め、持ち出し禁止の制服と鍵をチーフのデスクに置く。

扉を開け、外に出る前に一度振り返ると、『お世話になりました』の思いを込め、

深く頭を下げた。





朝、彩希はすずめの泣き声に目を覚ました。

昨日が『KISE』での最終日だったが、今日は『伊丹屋』へ初めて出社する朝になる。

誰もが初めて会う人なので、挨拶なども多くなるだろうと、

彩希は予定より早く家を出た。


「おはようございます、江畑と申します」


受付で名前を言うと、すぐに名前のつけられた社員証が渡された。

彩希はそれを受け取り、入る部屋の場所を教えてもらう。

『木瀬百貨店』は、電鉄会社の社員もいたため、お店とは別の建物を持ち、

地下通路を使って行き来をしていたが、『伊丹屋』には百貨店部門しかないため、

『新原店』の建物の中に、店舗と会社それぞれのエリアが存在した。

彩希は7階まで社員用のエレベーターで上がり、言われた場所の扉を叩く。


「おはようございます、江畑彩希です」


彩希の挨拶に、20人ほどいる社員たちが、『おはようございます』の声を出したり、

無言のまま頭を下げたりと、それぞれの挨拶をしてくれた。



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