38F イベント『あき』の陣(前編) ①

38 イベント『あき』の陣(前編)

38F-①


「すみませんでした」


結局、冬馬は彩希と一緒に江畑家に向かった。

佐保の前で頭を下げると、事情を説明する。


「お母さん、怪我はたいしたことないの。普通にしていたら大丈夫だったのに、
驚いて慌てた私が、ガラスの上に手を置いてしまって、ちょっと切っただけ」


彩希はそういうと、明日にでも包帯は取れるからと左手に触れる。


「冬馬君」

「はい」

「仕事……楽しい?」


佐保は、目の前に立つ冬馬のことを、学生時代から知っていたため、

何気なくそう聞いたつもりだった。冬馬は少し黙ったあと、『はい』と返事をする。


「俺、頑張ったら成果が見える、今の仕事は好きです。だから……」


冬馬の視線は、彩希の左手に向かった。

口では、彩希に迷惑をかけない、恩返しをするなど言っているが、

結局、また、自分がらみで怪我をさせている。

佐保は、口の重たくなった冬馬の肩を叩く。


「そう、頑張ってね……」


冬馬の気持ちを考え、佐保はそう声をかけた。


「……はい」


冬馬は、あらためて『すみませんでした』と頭を下げると、彩希を見る。


「また、連絡する」


冬馬の言葉に、彩希は『うん』と頷くと、気をつけてと声をかけた。





次の日、彩希は包帯をしていると、『伊丹屋』の社員たちに不思議がられると思い、

それをほどき、絆創膏を貼り付け出社した。

イベントは2日目となり、元々、イベントの準備期間から、

自分の担当場所を持っていた社員たちは、今日も忙しく動いている。

彩希は、いつもの場所に座り、お菓子の特徴などを書き記したノートを出した。

朝の光が入ってくる方向に、視線が動く。



窓ガラス



彩希の脳裏に、昨日の出来事がよみがえり、少しずつ鼓動が速くなった。

冬馬の会社とは違い、ここは7階になる。

外に人が立ち、窓ガラスを壊すことなどあり得ないとわかっているのに、

太陽の光に反射するガラスそのものを見るだけで、

音も、破片が当たった痛さも、またここで繰り返される気がしてしまう。

廊下で声がし始め、部屋の扉が開いた。

女子社員が2人、話をしながら入ってきて、持っていた金属プレートを置こうとした時、

謝って手を滑らせたため、『ガシャーン』と音が響く。


「あ……ごめんなさい……」


彩希は音に反応し、両手で耳を塞ぎ、そのまま立ち上がった。

足は震え出し、呼吸も荒くなってしまう。


「江畑さん……」

「すみません……えっと」


ものを落とした女子社員は、彩希の異常な反応に驚き、何か起きたのかと聞こうとする。


「いえ、何でもないです。ごめんなさい」


彩希は部屋を出ると、その場からとにかく逃げた。

窓からも、大きな音からも逃げるつもりで、休憩所に向かう。


「ふぅ……」


彩希は、とにかく落ち着いて呼吸しようと考え、あえてゆっくりと吸い込み、

そして息を吐き出した。

その場で振り返ってみると、数人座れるソファーには誰もいない。



『バタちゃん……』

『江畑さん』



まつばやエリカの声が、彩希の耳の記憶から呼び出されては消えていく。

ここがもし、『KISE』ならば、昨日の出来事を語り、驚くまつばの顔が見られたし、

起きた出来事に対して、冷静なコメントを返すエリカがいた。

そして……



『江畑……』



彩希は、拓也の声を思い出す。

以前、『KISE』に向かう地下通路を歩いている時、

回送電車が脱線するという事故があった。

予想外の大きな音と振動に驚き、その場で座り込んでしまった彩希に、

自分の体をかぶせ、守るようにしてくれたのは拓也だった。

息づかいを感じられるような距離に、心臓がドキドキと音を立てたが、

それ以上に、守ってもらったという安心感の方が強かった。

最初は、ぶつかってばかりいた拓也との関係は、いつのまにか、

『守ってもらう』ものに変わっていたことを、思い出していく。

彩希が彩希らしく振る舞い、『KISE』の売り場をどうしたらよく出来るのか、

人よりも優れた舌を使い、思いを言葉に出来ていたのも、

『第3ライン』のメンバーたちが、

それぞれに知恵を貸してくれていたからこそ出来ていたのだと、

あらためて感じてしまう。



ここでは……自分だけ



誰もいない休憩所の椅子に座り、彩希は傷ついた手に触れる。

昨日は痛くなかった場所が、今日はチクチクと痛む気がして、自然と涙が浮かんだ。





『伊丹屋』の秋イベントが始まって3日が経過した。

エリカは時計で時間を確認する。その『待ち時間』を示すように、

グラスの中にある氷が、音を立てた。

エリカは黙ったまま、その状態を見続ける。

約束の時間よりも15分ほど遅れて、店に純が姿を見せた。

エリカの隣に座り、ウエイトレスに注文を済ませてしまう。


「悪かった、1杯飲んだら出ようか」


この場所で長く過ごす気はないと言う意味なのか、純はエリカの顔を見る。


「その必要はないわ、今日はここで十分よ。
そちらもイベント開始で疲れているでしょう。
私もイベント準備で疲れているし、用事が済んだら早く帰りたいから」


エリカはそういうと、体を少しだけ斜めにする。


「なんだよ、最初からその態度で……機嫌が悪いのか」


純は、自分に背を向けそうになる恋人の左手に軽く触れる。


「そうね、ここ数週間の出来事があまりにも不快で、気分はよくないわ」


エリカは純が触れた手を動かし、一度タバコを吸おうとするが、

そのままテーブルに置いてしまう。


「人の意見を全く聞かないあなただから、
まぁ、こうして当たり前のように、連絡をしてくるのでしょうね」


エリカは、姿勢を戻すと、彩希は元気なのかと聞き返す。


「元気も何も、毎日頑張ってくれているよ。うちの商品をしっかり覚えて、
これから……」

「そうかしら」


すぐに切り返したエリカの顔を、純はどういう意味なのかと見る。


「純が私を呼ぶときには、何か聞き出したいことがあるからだと、
今まではそう思っていたの。でも、江畑さんが『伊丹屋』に就職した以上、
残された『KISE』のメンバーが何をしようが、興味も無いでしょう」


エリカはそういうと、純を見る。

純は少しだけ口元を動かし、『だとすると』と聞き返す。


「思っていたよりも、江畑彩希が輝かない……」


エリカはそうでしょうという顔を純に見せると、

指にはめていたリングをはずし、前に置いた。



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