38F イベント『あき』の陣(前編) ③

38F-③


拓也がそんな思いを抱え、売り場に立っていた頃、

『伊丹屋』にいる彩希は、仕事をしなければならないと強く思いながらも、

うまく動いていない状態に気づき、気持ちだけを焦らせていた。

『伊丹屋』の商品全てを知ることに、時間がかかるのは承知していたが、

正直、状態はもっとひどくなっている。

復習の意味を込めて、『リリアーナ』など、両方の店舗に店を出す商品も購入し、

味を見ようと思って見たが、『KISE』にいたときのような舌の感覚はなく、

何を食べても、同じような味の印象しか持てなくなっていく。

いつも部屋に残り、ひとりでいることが増えたためなのか、

社員たちが現場から部屋に戻り、ガヤガヤと話し出す声にも、気持ちが乱れてしまう。


『ねぇ、あれ見た?』

『長いわよね、あの客……』

『あ、ちょっと!』


その『声』や『音』の先に、また何かが起こる気がして、彩希は何度も窓を見てしまう。

しないはずの音に耳を塞ぎ、休憩所に向かっては深呼吸をする。

『やらなければ』という気持ちの縛りが、彩希自身をがんじがらめにし、

今まで出来ていたことにさえ、自信も持てなくなっていた。





「いやぁ……僕は今こそ『KISE』の社員でよかったと思った日はないですね」


芳樹はそういうと、軽く胸を張る。


「実は、昨日、連絡をもらいまして」

「連絡?」

「はい」


いつもの通勤電車内で、芳樹は拓也の横に並んだ。

今回、秋のイベントに関しては、『伊丹屋』よりも『KISE』の方が評判がいいと

自信ありげに語る。

その根拠は、芳樹が趣味で続けている書道の会だった。


「ほぉ……少数精鋭の5名が、イベントを褒めてくれたわけか」


拓也は、芳樹をからかうように、そう言い返す。


「広瀬さん、ちょっと嫌みを入れてますよね、その言い方。
あのですね、僕らの会が、いつまでも5名であるわけがないでしょう」


芳樹は、先月から2人増えて7名になったと指を2本立ててみせる。


「ふーん」


拓也にとっては、5でも7でもどうでもよかったが、

芳樹は、以前、純たちと飲み会で会った日のことを思いだし、

あの時、手の内を見せたことを後悔しているのではないかと話し出す。


「後悔? 栗原がか」

「そうですよ。『和茶美』があると、あの男、自慢げに言ったじゃないですか。
僕たちもなんだそれはと、驚かされましたし」


あの出来事が、拓也や武に火をつけたと、芳樹は左手を握りこぶしにする。


「今回は……」


拓也は、今回のイベントが成功しているのは、

彩希に教えられた味がメインだからだと、そう考えていた。

『チルル』も『ひふみや』も、彩希がいなければ、イベント参加はあり得なかった。


「この盛り上がりをどう続けていくのか、そこが大事なんだけどな」


拓也はそう言いながら外を見る。

職場になる『木瀬百貨店』本社が近づき、だんだん大きくなってきた。





彩希はメモをしたものを読み返し、納得できなかったのか紙を破った。

もう一度半分を口に入れ、しっかりと噛みしめる。

なかなか先に進まない状態を切り替えようと、何気なく携帯電話をのぞくと、

メッセージを送ってきたのはまつばだった。

そこに入っていた写真には、始まった『KISE』のイベントが大盛況なこと、

『チルル』の新しいお菓子も、『コートレット』の臨時ブースも、お客様が口コミや、

SNSで宣伝してくれるため、さらなる効果を生んだことなど、

細かく説明がされていた。



『バタちゃん、水原さんとも予定合わせるからさ、一緒にどこかで飲もうよ。
それに、もし、顔を出せるのなら、ぜひぜひ、来てみて』



まつばは、彩希が深く関わったイベントだから、この盛り上がりも感じて欲しいと、

そう文章を閉めていた。彩希は、すぐにでも飛んでいきたい気持ちになる。

彩希はカレンダーを見ようと思い、自分の席を立ち、

他の社員が使っているデスクの前に立った。

そこには、数枚の用紙があり、そこに気になる文字を見つける。



『山田数行』



彩希は、その名前に反応し、上に重なっている紙をずらして続きを見た。



『江畑晶』



「あ……」


父の名前が書かれてあり、思わず紙に書いてある内容全てを読もうと、

彩希は、人の机の上だということも忘れ、紙を手に持ってしまう。


「江畑さん」

「はい」


彩希は声をかけられたので、紙を持ったままで、すぐに振り返った。

立っていたのは、彩希が『伊丹屋』に来た日、声をかけてくれた女子社員になる。


「何をしているんですか、それ、あなたの書類ですか」

「あ……いえ、あの……」

「それはその席に座る、鈴木さんの書類ですよ」


彩希は、自分がなぜ『伊丹屋』に来たのか知らない社員に、

どう話したらいいのかわからず、言葉に詰まってしまう。


「もしかしたらあなた……それ、『KISE』の社員にでも渡すつもりですか」

「エ……」

「なんだか落ち着きがないでしょう。『伊丹屋』の資料をあれこれ探して来いとでも、
言われているの?」

「いえ、違います」


彩希は、用紙を置き、自分にはここへ来た理由があるのだと、社員に話そうとする。


「私は、父の名前がここにあったので……それで……」


彩希が説明をしようとしている時、他の社員が数名戻ってきた。

向かい合っている2人の様子がおかしいと思ったのか、足が止まる。

部屋の中は、とたんに重たい空気に覆われる。

視線の向きを考えても、状況を見てみても、彩希の方が不利であることは明らかだった。

彩希は事情を説明するという行為を諦め、

『すみません』と頭を下げると部屋を出てしまう。

とにかく、離れたくてただ廊下をまっすぐに進み、突き当たりまで歩く。



『父親を探してくれる約束があります』



本当なら、しっかり説明すべきなのに、それが出来なかった。

流れている空気が重たすぎて、全ての社員の視線が、

最初から疑わしいものを見るようにしか思えず、どう処理したらいいのか、

どう話したらいいのかと考え、結局、一人、階段を降りてしまった。





先にスタートした『伊丹屋』のイベントは、今日が最終日だった。

彩希は地下食料品売り場にまで降りると、そのまま『和茶美』のブースを目指す。

すると、『伊丹屋』イベント最初の日、純と一緒に店の前に立っていた菅山が見えた。

彩希は、どうしても菅山と話がしたいと思い、前へ進もうとするが、

売り場を目指すお客様とぶつかってしまう。


「すみません……大丈夫ですか」

「もう……よそ見しないでよ。せっかく買ったものが崩れるでしょう」

「申し訳ありません」


彩希が謝り頭を下げたあと、菅山のいた方向を見たが、

その姿はもう、売り場になかった。



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