10 過去の訪問者

10 過去の訪問者

研修旅行から戻った雪岡教授の部屋を訪ね、私は仕事を辞めることを伝えた。

教授は万年筆で机をコツコツと叩きながら、驚くことなく私の話を聞いてくれる。


「そうか……」

「はい。先生には、いい職場を紹介していただいたのに、
こんな形でやめてしまうことになって……。本当にすみません。
でも、二人でこれから歩んでいくためには、この方法しかないと思ったので」

「……そうだな。敦子が大学に残るわけにはいかないな」


私が蓮とのことを初めて話した時には、別れを進めた教授も、

二人の想いが真剣なのだと気づき、応援するぞと笑顔を見せてくれた。

その優しさが、誰の言葉より重く、嬉しい。もう、会うことの出来ない父がこの場にいたら、

きっと同じ言葉を返してくれるだろうと、いつもそう思う。


「こうなったら、あいつにはしっかりと就職を決めてもらわないとな、敦子」

「先生、そんなプレッシャーはかけないでくださいね。私は自分で選んだんです。
蓮には蓮の思いがあると思うので」

「……そうか」


これからも私の相談相手になってくださいと頭をさげ、雪岡教授の部屋を出た。

退職願はすぐに受理され、事務局長からは、学生が噂したことが事実なのかと聞かれたが、

しかし、そこは蓮の立場を考えて否定し、やりたい仕事があるのだとウソをつく。

どうせ、やめてしまうのだ、誰が何を言おうが関係ない。


私は10月いっぱいで、大学を去ることが決まった。





「辞めるしかなかったのかなぁ……」

「うん、もう退職願は出したの。今は次の職場探し」

「敦子、あのさ……」

「蓮、そのことに関しては、悪いけど意見しないで。私がそうしたくてそうしたの。
犠牲になったとか、堂々としていればいいとか、そんなことは今更聞きたくない。
あれこれ悩みたくないから。あなたと会うことを後ろめたいと思うのも嫌だし、
あなたに妙な噂がかかるのも嫌なの」


蓮は心配そうな顔をしながらも、私の言葉を黙って聞いてくれた。

心を無理に隠した日々に比べたら、私の気持ちは、すっきりとしている。

そんな雰囲気が伝わったのか、こわばっていた連の表情が、だんだん解かれていく。


「私らしく生きるために、この道を選んだ。そう思って」

「……わかった」


私たちはそれから、普通の恋人として日々を送った。

大学を辞めてから私は仕事を探し、とりあえずコンビニのレジでバイトをする。

収入はたいしてなかったが、就職活動をするためには仕方なく、1ヶ月が過ぎた。


蓮も就職活動を開始し、時々スーツ姿で部屋へ来ることもあった。

ジーンズでいるよりも、大人びて見え、何年後かにこんな姿を、

毎日見ることが出来るのだろうかと、余計なことまで考える。





「ねぇ、蓮、一度聞いてみたかったことがあるの、いい?」

「何?」

「蓮はいくつまでピアノを習ってたの? だって、ショパンは比較的難しい曲が多いし、
その中でも『革命』は難度が高い曲だと思うから」


部屋から見える木々が秋の色にすっかり染まった頃、私は以前から思っていた疑問を、

そのまま蓮にぶつけた。


「きちんと習っていたのは中学3年まで。あまりの才能のなさに、親があきらめた」


蓮はそう言って笑うと、ピアノの蓋を閉める。

『革命』が弾けるのに才能がないというコメントは、すぐには受け入れられない。

私だってピアノに関しては素人じゃないのだ。


「でも……」

「敦子、気付かない? 僕がこの曲しか弾かないこと」

「ん?」


そう言われてみたらそうだった。蓮はその他の曲を弾いてくれたことがない。

私は自分が好きな曲を弾いてくれることに満足して、そんなところを疑問に感じたことなど、

今までなかった。


「姉さんが習ってたんだ、ピアノ。小さい頃は体が弱かったらしくて、
両親がピアノを習わせた。外に遊びに行けない代わりに、どんどんのめり込んで、
小学校の頃からコンクールみたいなものに出たり、結構頑張っていたらしい」


蓮のお姉さん……。姉弟のことは初めて聞いた。

私に姉がいるように、蓮にお姉さんがいてもおかしくないのに、一直線で頑固な蓮のことを、

私は勝手に一人っ子だと思いこんでいた。


「蓮って、一人っ子だと思ってた」

「それって我が儘に見えるってこと? ……まぁ、今はそうだけどね」

「……どういうこと?」


蓮は立ち上がり窓の外を見ながら、道路を走っていく車を目で追っていく。

優しい目だったがどこか寂しさがあり、リズムよく動いていた会話に、微妙な間が開いた。


「もうずいぶん前に、死んじゃったからさ」


予想していなかった事実に、私は言葉を止めた。聞かなければよかったと思っても、

もう飛び出した言葉は戻らない。蓮の傷に触れてしまった気がして、私は下を向く。


「何だよ、敦子。そんなに気にするなよ。そんなことで下を向かれちゃうと、困るんですけど」

「でも……」

「あんまりさ、印象がないんだよね、姉さんの。なんせ12も離れていたから」


寂しげな目をどこかにしまい込み、蓮は一度閉めたピアノを開けた。

ゆっくりと指を動かし、『革命』のメロディーの鍵盤を押していく。


「いつもピアノを弾いていた。その頃は小さくて、なんて曲かもわからなかったけど、
後から曲を知って、姉さんがショパンが好きだったことに気付いたんだ。
亡くなってから見つけたんだけど、机の中にカセットテープがあってさ、
その中で演奏されていたのが、この『革命』だった。一緒に何かを書き込んだ楽譜もあって、
僕はずっと大事に持ってたんだ。ひたすらこの曲だけ練習して、練習して……。
この曲を弾くことで、どこか、姉さんの面影を感じたかったのかもしれない」

「お姉さん……病気で亡くなったの?」

「いや、許されざる恋の果てに、その男と心中した」


あまりにもあっさりと聞かされた、重たい事実に、私は声が出なかった。

何も悩みなどないくらい明るく、マイペースな蓮の中には、そんな昔の出来事が隠れていたのだ。


「ごめんね……蓮、変なこと聞いて」

「いや、別にいいよ。もう18年も前のことなんだ。敦子には隠し事はしたくないし、
何を聞かれても、ちゃんと答えるよ」

「うん……」


私にだけは全てを見せるといってくれたことが、何よりも嬉しく、

哀しい話を聞いたのに、私の顔はどこかほころんでしまう。


「なぁ、敦子。今度、楽譜ここへ持ってくるよ。家にあるんだけど、家じゃ弾かないし」

「そんな、お姉さんの形見でしょ?」

「いいんだ。姉さんの楽譜は、みんな母さんが捨てた。
でも、この楽譜だけは捨てられなくて、僕が隠している。だから、ここにあった方が、
見つからないし……。それに、敦子がこの曲をそんなに好きなら、もう少し練習して、
スピードをあげないと」


そうなのだ。父に比べて違うのは、そのスピード感だった。オクターブの音を抑え、

力強さを出しながらも、さらにスピードもあるこの曲は、小さな私の手では、

絶対に弾きこなせない。



『敦子は残念だな、手が小さくて……』



そう言いながら、父が笑っていた姿を、ふっと思い出した。





それからしばらくして、蓮は思い出の楽譜を、私のピアノの上に置いていった。

開いてみると、確かにあれこれ書き込みがされていて、専門的な音楽用語が並んでいる。

表紙には何かの合図なのか、ADAというサインがあった。


この言葉に、何の意味があるのか全くわからなかったが、亡くなったお姉さんに、

その意味を聞くことはもう出来ない。





「いらっしゃい、繭、大きくなったね!」

「でしょ。夏の時はまだふらふらしていたけど、ちゃんとつかまり立ちして、
もう少しで歩いちゃいそうよ。そうしたら、さらに目が離せないわ」

「うん……」


日曜日、姉の涼子が娘の繭を連れて、私の部屋を訪れた。

姉の旦那様は優秀な設計士で、仕事が立て込み、忙しく家族でどこにも行かれないのだと、

愚痴りに来た。


「義兄さんだって、一生懸命仕事しているんじゃないの。文句なんか言ったら、
バチが当たるからね、お姉ちゃん」

「わかってるけど!」


姉は何気なく部屋の中を歩きながら、ちょこちょことチェックをしているように見えた。

そんな姉の探偵ぶりが、お茶を入れようとする気持ちを、焦らせる。


「ねぇ、敦子。付き合っている人いるんでしょ」

「……どうして?」

「だって、男の匂いがする」


その生々しい言い方に、私は少し不機嫌な顔をした。姉は自分が上手く見抜いたのだと、

得意げな顔でこっちを見る。


「変な言い方はやめてよね。一緒になんて住んでないんだから」

「ふーん……でも、昨日くらいに来てたでしょ」

「……どうしてわかるの?」


確かに姉の言うとおり、蓮は昨日ここにやってきた。

レポートがうまく進まないと言いながら、床をゴロゴロと転がっていた姿を思い出す。


「洗面所に、ホテルのおまけみたいなカミソリが捨てられてるもの。
何日か前なら、ゴミとして捨ててるでしょ、あんた」


全くもう、暇をもてあますのも困ったものだ。私は何も言い返さずにお茶を入れ、

ここへ座ってと少し強めの口調で言った。


「敦子もいい年だもんね、早く嫁にもらってもらいなよ」

「うるさいな……」


蓮はまだ学生なのだ。そんな要求が出来るはずがない。無事、大学を卒業し、

まだ、私のことを好きでいてくれたなら、そんな未来も見えるかもしれないが。


姉は、ピアノの前に立ち、なにげなく蓋を開けた。


「敦子は本当に父親っ子だよね。こんなピアノを置いていたら、
スペースばっかり取って、邪魔なのに」

「いいでしょ」


このピアノのおかげで、私は蓮と出会えたのだと言いたくなったが、

話を複雑にしたくなかったので、あえて黙っていることにした。

姉の手が上へ伸び、蓮が置いていった『革命』の楽譜に触れる。


「お姉ちゃん、お茶入れたから飲もうよ……」

「敦子、これ、どうしたの? 園田のうちから持ってきたの?」


楽譜を持った姉が振り返り、久しぶりに『園田』の名前を出した。


「それは違うの。預かってるのよ……あのね」

「預かった? だってこれ、お父さんの楽譜よ!」


私の頭は、姉の口から飛び出した言葉の意味を、すぐに理解できなかった。





11 18年前の事故 へ……




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コメント

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そこに来ました

yokanさん、こんばんは!


>ええ~、そこへ行くの~(@@)予想が外れることを祈るわ(ーー;)

そこいくんですよ。でも、yokanさんの予想、気になるな。
いよいよ、家族を交えて、話が展開しますので、
よろしくお願いします。

おたけび?

mamanさん、こんばんは!


>うおぉ~!な・何と、ま・まさかの展開!ですか?

最初の頃の流れからすると、そりゃビックリ! かもしれないですね。
でも、本題はここからなんですよ。
二人の問題から、一気に家族を巻き込んでいきますので、
よろしくお願いします。

許されざるもの

『許されざる恋の果てに、その男と心中した』幼かった蓮にはなんのことか理解できなかったでしょうね。それが分かる年齢になったときには、その男を恨んだ?

今でも許せないと思っているのでしょうか?

父さんの楽譜を持っていた蓮の姉。

あーー不倫の末の・・・・こんな展開が待っていたなんて!

当時、蓮は7才

yonyonさん、こんばんは!


>『許されざる恋の果てに、その男と心中した』
 幼かった蓮にはなんのことか理解できなかったでしょうね。

そうなんですよね。敦子は全く知らなかったところに、
姉の話がついてきましたが、蓮は、すでに情報を知っているわけで、
そのねじられている部分を、どうとらえるか。

男と女の違いも含めて、次回またお付き合いください。