8 無言の指 【8-4】

【8-4】


すぐにバッグからハンカチを取り出し、口元をしっかり拭き取る。

あぁ、もう、やだ。思い切り寝てしまった。

きっと、また、色々と言われるし。



もう一度、外にいる蒼を見ると、ポケットから何かを取り出して、

それをしばらく見た後、そのまま海に放り投げた。

何を今、投げたのだろう。

絶対に仕事ではないとわかるような行動に、

ここは『起きました』と外に出るより、あとで怒られたとしても、

とりあえず知らないふりをしていた方がいいのではと思い始める。

海を見ていた蒼が、車に戻って来るのか、方向転換した。

もう、いい。覚悟を決めよう。

ここは目を閉じたままにして、運転の途中で起きよう。

何しているんだと言われるのはわかっているから、どう言い返すのか、

これから考えることにする。

普通の人だって、『つい寝ちゃった』ってこと、あるから。

別にそれほどおかしくないし。


怒られたって、自分が負けなければそれでいいはず。

だから、『仕事を辞めろ』と言われたら、『私の自由にさせて』と言い返して……




言い返して……




おかしい。

少し前に扉が開く音がしたし、蒼が隣に座った気配があるのに。

エンジンはかからないし、起こされることもないし。

何をしているのか、思い切って薄目、開けた方がいいだろうか。



エ……



私の髪に触れる手。

ゆっくりと動いている。

100%、絶対とは言えないけれど、他に乗る人がいないのだから、蒼しか考えられない。

『いつまで寝ているんだ』って、起こされないのだろうか。

こんなことになるなんて、思っていなかったから、

起きるタイミングが逆に難しくなって。

その指の動きに集中していると、そばにいるはずの蒼の息づかいまで届くようで……

まずい、心臓が急に慌てて動き出した。



距離……近いのかな、蒼は、どんな表情をしているの?



「……ックシュン」


私は、思い切り計算外のくしゃみをする。

そのタイミングで目を開けると、手と顔を引いた蒼と目があった。


「ごめんなさい……花粉症なのです」


その言葉に戻される返事がないまま、蒼はあらためて車を動かした。





それから、蒼と一緒に企業を回った。

『キタック』は創業以来、引っ越し業務一筋で会社を作ってきたこと、

これから『MAKINO』との仕事をする中で、ノウハウを生かしていくことなど、

相手側も好意的に受け入れ、話を聞いてくれた。

企業が相手となると、キャンセルや勘違いという仕事のずれは無くなるだろう。

それなら、安定した仕事を積み重ねることも出来る。



それにしても……



蒼の手、指。

あの行為はなんだったのだろう。

ちゃんと起きろと言うこともなく、結局、あの後も何も言われなかった。

よく思えば、寝ていてかわいそうだから、起こさないようにしてくれたということだし、

悪く言えば……



悪くは……言えない。



「しっかりしないと!」


自分で決めたことだ、やれると言い切ったのだから、

情けをもらおうだなんて間違っている。

私は気持ちを入れようと誓いながら、右手でお米をといだ。





しかし……

それから1週間経った日、とんでもなく体が重く、立ち上がれなくなる。

体温計なんて使わなくても、絶対に熱があるとわかる状態。

体の節々が痛くて、少しすると、震えるくらい寒気がした。

何年かぶりの『発熱』。


「はい、すみません、今日はお休みさせてください」


朝の荷下ろしだけでなく、当然『キタック』にも出られない。

社会人1年目の去年、自慢ではないが病欠は1度もなかった。

となると、やはり体が悲鳴を上げているということだろうか。


「はぁ……」


受話器を置き、何度か大きく息を吐く。

こうなったら寝ているしかないのだけれど、常備薬を飲むにしたって、

何かしら口にしないといけない。

寒気のする体を必死に起こし、布団にくるまりながら冷蔵庫を開ける。

野菜もお肉もあるけれど、調理なんて出来る状態じゃないし。

冷凍庫を開けて、ご飯を解凍する。

両手でそれを握って、なんとか口に入れた。

美味しくもない、米粒の塊を、とにかく口に入れて、胃に押し込んでいく。

薬を飲むための、強引な食事。



情けない……



気持ちだけは前向きに頑張っているつもりなのに、

たった1回の返済をしただけで、蒼に言われた通りに、こうして崩れている。


「クッ……」


泣くのが嫌で涙を抑えようとしたら、変な声が出た。

どうにかそれも納めようとすると、そこからしゃっくりに変わる。



『頼れる人はいないのか』と蒼に聞かれた。

『助けてよ』と言えるのなら、いますぐにでも言いたいけれど、

誰に言ったらいいのかも、わからない。



『風音……』



結局、蒼の声しか浮かばないことが嫌で、私はそこから布団をかぶり続けた。





驚異の快復力。

絶対に負けたくないという思いが、体の細胞をたたき起こす。

今回の発熱は、どこかに隙があったから。

そう気合いを入れ直し、今朝も仕事に向かう。


「おはようございます、昨日はすみません」

「おぉ……おはよう。体調戻ったか」

「はい、戻りました」

「若いなぁ、さすが」


『荷下ろし』仕事をし始めて、少しずつみなさんのことを知った。

私たちのチームにいる、一番ベテランの男性は、

ここから自転車で15分のところに家があり、奥さんと犬が帰ってくるのを待っている。

定年退職を迎えたが、退職金で家のローンが払い切れなかったため、

その残りを返済する目的で働いているという。

そして、少しひげを伸ばした私よりも3ヶ月早い先輩は、

将来、役者として羽ばたくための準備金をためたいのだと言っていた。

それぞれ事情があって、大変な仕事を頑張っているから、

誰にどんな理由があろうが、それを笑ったりしないし同情もしない。

みなさん、今と戦って、また明日を生きようとしている。

『キタック』とは違う世界が、ここにはあった。


「空、流します!」


私の声に、先を行く人たちが、『OK』の手を上げてくれた。


【8-5】



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