9 期待の芽 【9-1】

9 期待の芽

【9-1】


「場所は知っていたけれど、東京にいた頃は、行きたいと思ったことはなかった」


父親が亡くなった場所、確かに行きたくない気持ちも理解できる。


「仕事の中での事故だから、もちろん労災にはなった。
でも、普段の父親なら、そんなことにはならなかったんだ。
あれは判断がおかしくなっていたのだろうと、あの場所に立ちながらそう思った」


蒼は、お父さんが仕事で忙し過ぎて、時間の余裕が無くなり、

判断ミスをした結果が、事故になったという気持ちを話してくれる。


「子供だったから、父親に意見なんて言えなかった。
だから、疲れている父親を黙って見ているしか出来なくて。
気付いたときには、亡くなったという連絡が入って」


生きること以上に、大切なことはなかったんだと、

蒼は当時を振り返っているように見える。


「風音、お前が無理をして、お金を用立てても、体を壊したりしたら意味がない。
今の俺なら、これくらいはしてやれる。いや……今はこれしか出来ないけれど、
これからはもっと……」



『これからはもっと……』

蒼の言葉に、私の顔も自然に上を向く。


「とにかく、別に、恩を売ろうとしているわけではないし、
金も貸してやるだけだから。あれこれ気にせずに、使っておけ」


蒼の通帳。

入金は数日前になっている。

前回のように現金を目の前に出すわけではなく、私が自由におろすため、

そのためにある通帳。


「死んだら……意味が無い」


お金をもらっても、人の命は戻らない。

蒼は、お父さんに二度と会えなくなったのだ。


「ありがとう」


自分ではそう思っていなかったのに、今、確実に心の中で、

どこかが解き放たれる気がしてしまう。

追い詰められていた時間ではなく、少しだけ、ほんの少しだけ、

楽に呼吸が出来る気がして。

最初にお札の束を見せられたときには、反発した気持ちも、

1冊の通帳に形を変えたことで、素直に感謝の言葉を出せるようになった。


「おばさんはどんな様子なんだ」

「うん……。致命的に悪いとまではいかないけれど、血管も、肝臓も、
あまりよくない状態らしい。とにかく少し休む気持ちで入院させる」

「そうか……」


私も蒼も、『母と自分』。

その微妙な感情は、理解してもらえるだろう。


「本当に申し訳ないけれど、今日は素直に受け取ります。
きちんと計画して返しますから」

「仕事は『キタック』だけにしろ。荷下ろしのバイトはやめて、
余計なことはしなくていい」


蒼は荷下ろしの仕事を辞めるように言う。


「それじゃ、返せないよ」

「10年かかっても、20年かかっても構わない。それでいいんだ」

「ダメだよ、それは……」


私は、今のように無理はしないが、少しだけ努力させてくれと言い返す。

浸かってしまうのが怖いのだ。

蒼の思いに。


「風音……」

「何?」


蒼の使うデスクにある電話が、鳴り出した。

いつまでも時間を戻すなと、訴えかけてくる。

結局、蒼が会議に向かうことが決まり、私たちの会話はそこで終了になった。





帰りの電車の中、空いていたから端の席に座り、通帳をバッグに入れたままで、

金額だけを確認する。



『150万円』



ゼロの数も間違いない。

もちろん全額借りるつもりなどないけれど、いくら借りて、どう返していくのか、

ゆっくり考えないと。

蒼は10年、20年かかっても構わないとそう言ってくれた。

もちろん、そんなにかかっていいわけはない。



でも……



それだけの長い間、通帳を挟んでだとはいえ、蒼とつながるのかと思うと、

どこかに嬉しさもあった。

それに、『これからはもっと』と、そんな発言もしてくれて。



『古川蒼』と書いてある通帳。

持っていることが、どこかくすぐったい気持ちにもなる。



『風音が好きだ』



そう言ってくれた高校2年の秋。

学園祭での話は、事件で流れてしまったけれど、こんなふうにまた再会して、

迷惑をかけているけれど、でも、縁があって……



あの時間が、また、時を超えてつながるかもしれないなと、

少し穏やかな気持ちになる。



車の中で私の髪に触れた蒼の指。

あの時きっと、亡くなったお父さんのように、私に無理をして欲しくないと、

そう思ってくれていたのだとしたら……



そうだとしたら、素直に嬉しいけれど……



私は、大事な通帳の入るバッグをしっかりと両手で抱えながら、

確信のない思いを励みに、これから毎日が送れるのではないかと、単純にそう思っていた。





蒼に借りたお金で、鈴おばちゃんにも残りを返済し、『スマイルローン』とも縁を切った。

荷造りの仕事も1日減らして、『キタック』とぶつかる日付は1日だけにする。

休みの日に実家に戻り、祖母と一緒に病院へ向かい、担当の先生とお会いした。

母は、確かに病状が軽いというわけではないけれど、

今ならまだしっかりと治療が出来るし、

治りも早いだろうという前向きな言葉をもらう。

お金を気にする母は横に置き、どんどん手術の日付を決めてしまう。

祖父母も、話が動いたことがわかりほっとしたのか、明るい笑顔が戻っていた。


【9-2】



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