11 18年前の事故

11 18年前の事故

『お父さんの楽譜』





姉の涼子が、いきなり言い出した言葉が理解できず、私は慌てて、

その楽譜の持ち主が父ではないのだと主張した。


「蓮って誰?」

「今、お付き合いしている人、その楽譜は彼のお姉さんの形見なの」

「……お姉さん? ねぇ、名前は? 名前!」

「お姉ちゃん……」


心臓が一回ずつ脈を打つ度に、存在感をアピールする。

何かが自分を追ってくる不安を感じながら、私は蓮の名前を言った。


「広橋蓮」

「広橋……蓮……そう、そうなんだ、やっぱり……」


姉はピアノの椅子に座ると、もう一度しっかりと楽譜を見た。

その目は何かを思い出しているのか、とても寂しく、姉のこんな顔を、私は今まで、

見たことがなかったかもしれない。


「どうして? 何? 意味がわからないよ。蓮のお姉さんとお父さんが何か……」



『男と心中した』



蓮がそう言ったことが思い出され、私の頭の中はパニック寸前になる。

蓮のお姉さんが心中したというのは、父のことなのだろうか。

父は事故で亡くなったのだと、聞いていたあの話は、ウソだったということなのか。


「敦子、その人とは別れないとダメだよ」

「……どうして?」

「敦子の存在なんて、絶対にあのうちは認めてくれない」


口にしたくはなかった。それでも、しなければ真実が見えない。

私は覚悟を決めて、言葉を送り出す。


「お父さんが、蓮のお姉さんと心中したから?」


姉はその言葉に一瞬驚いた顔をしたが、目を閉じ、そして何度も首を振った。

私は何を、誰を、どんなことを信じればいいのだろう。


「お父さんはそんな人じゃない。でも、その人がそう言ったってことなんでしょ」

「お父さんのことは知らない。ただ、お姉さんが亡くなったのは、
男の人と心中したからだって」

「ほら、そうなのよ。まだ、全然認めてない。警察は事故だって言ったのに、
18年経っても、あのうちは父さんに罪をなすりつけている。敦子、そんな男やめなさい。
あんたが惨めになるだけじゃない」

「惨め?」

「そうよ、もう過ぎてしまったことを、ずっと言われ続けるのよ」

「ちゃんと説明してよ。私、全然知らないんだもの。何が真実なのか、ちゃんと……」


私のその言葉に、姉は遊び疲れて床で寝てしまった繭を抱き上げ、

ベッドに寝かせると、ソファーへ座った。


小さなテーブルに、『革命』の楽譜を置き、ゆっくりと話し始める。





今から18年前、私たちの父は、ある音楽大学の臨時講師を引き受けた。

そこの学生だったのが、蓮のお姉さんである広橋幸さんで、

おとなしくなかなか語らない彼女を、いつも気にしていたと言う。


そんな父の好意が、彼女の気持ちを開かせ、コンテストなどでも実力どおりの結果が、

出せるようになった。成績が上がることをきっかけに、少しずつ、

前に出て行くことが増え、性格も明るくなり、手作りでケーキを焼いてきたり、

刺繍をしたハンカチをくれたりしたことを、よく、父も母や姉に語ったらしい。


私は当時9歳で、そんな話があったことすら覚えていないが、

母は、幸さんの父への気持ちが、危ない方向へ向かなければいいがと、内心心配していた。


そんな夏、大学が持つ奥多摩の練習場で、事件が起きた。

夜の10時過ぎ、父と幸さんが乗った車が、対向車線を走ってきたトラックのはみ出しに、

大きなカーブを曲がりきれず谷底へ転落し、二人はそのまま亡くなった。

幸さんも父も荷物を何も持っていなかったことで、二人が男女の関係になり、

心中したのではないかと、当時、噂されたりもしたが、現場検証の結果、

それは事故だと結論付けられた。


しかし、幸さんの両親、特に母親はこの結果に反論し、娘は園田講師に振り回されて、

亡くなったのだと、大騒ぎになった。幸さんの残した日記に、父のことが書かれていて、

彼女の気持ちが自分へ向かっていたことを知った父が、家族に関係を知られたくなくて、

こんな事故を引き起こしたのだと、言い続けたのだ。


「母さんは心労が重なって、園田のおじいちゃんに言われて、垣内に名字を戻したの。
お父さんの家族だと言うことを、隠した方がいいって……そう、親戚も判断した。
私も、敦子もこれから育っていくのだから。根も葉もない噂に、
振り回されるのはよくないって」

「お父さんは……本当に……」

「お父さんは、絶対に不倫なんてしない。警察の人も、今まで不倫カップルの事故を
何度も見てきたけど、みんなが合宿しているような時に連れ出すなんて、
あり得ないってそう言ってくれた。でも、広橋家は……」


私は視線を楽譜に落とした。幸さんが大事にしていたこの楽譜は、

父がくれたものだからなのだろう。


「どうして、これがお父さんのだってわかるの?」


姉は人差し指で、表紙に書かれたADAの文字を指した。

いつも本番前にゆっくりと、ゆったりと自分に暗示をかけていた父に、

音楽用語のゆるやかにという意味、adagio(アダージョ)から、

仲間がつけてくれたあだ名なのだそうだ。


「敦子はあんまりお父さんの楽譜を知らないんだよね。事故があってから、母さん、
みんなしまい込んじゃったから。今度、園田のおじいちゃんに頼んで、
ダンボールを開けてみるといいよ。みんなADAの文字が表紙に残っているから……」

「そうなんだ……」

「私たちは、お父さんを信じている。だから、何か理由があって、
幸さんを車に乗せたんだと思うけど、でも、亡くなってしまったから、真実は聞けない。
だからこそ、広橋家とは関わらない方がいいんだよ。蓮君だっけ? 
彼に罪はないけど、お姉さんが亡くなって、残った息子さんに、
園田修一の娘が近づいたなんて知ったら、それこそ、また半狂乱になりかねない。
そんな思いを敦子がする必要もないじゃない。辛いかもしれないけど、
彼とは別れた方がいい」

「お姉ちゃん……」

「忘れた方がいいよ、敦子」





まさかそんなことになるとは思わなかった。蓮が学生で、私が大学の職員であること、

そんな立場の違いと、2つの年齢の差が、二人の壁なのだと思っていた。

素直になり、互いに励まし合うことで、乗り越えられるのだとそう信じていた。


しかし……


18年も経った事故の時間は、私たちに超えられないものなのかもしれない。





「敦子、どうした? あんまり食べてないけど」

「ん? あ……ごめん。ちょっと考え事しちゃった」

「なんだよ、ダイエットでもするつもり? まだまだ大丈夫だよ、
今の体重ならじゅうぶん、支えてやれるけど」


姉がここへ来てから3日後、いつものように蓮は私の部屋に現れた。

二人で食事を作り、普段と変わらない、ゆったりとした時間を過ごす。


「女ってさ、どうして痩せようとばかりするのかな。
女が思うほど、男はそんなに細いのは好きじゃないのに。
ちょっと弾力もないと……いろいろと……なぁ……」

「うん」

「敦子はそのままでいいよ。痩せる必要もないし、まぁ、太る必要もないけど」

「うん……」


蓮は、何も知らないのだろう。そう思うと、ただ事実を知ったことが辛かった。


『18年前の事故』を語ってしまえば、私は目の前にいる大事な人を、
今日、ここで失うかもしれない。

そう思いながら蓮を見ていると、その笑顔がだんだん、ぼやけ始める。


「敦子……どうした」

「どうしたんだろう」


あなたが私の隣からいなくなる。もう、語りかけてくれることもなくなるかもしれない。

そう思うだけで、叫び声をあげたくなるくらい切なかった。


それでも、このまま何もなかったようにはいられない。

私は18年前のことを、知ってしまったのだから。


「また、誰かに何か言われたのか?」


私はなんとか笑顔をつくり、首を横に振った。

そうじゃないのだ、誰かが何かを言ったくらいなら、耐えてみせる。


「話せよ」


わかっている。話さなければならない。

私の心の中だけで、処理してしまうような問題ではない。


蓮が好きで仕方がない。だからこそ、彼にもちゃんと真実を知って欲しい。

そのうえで、お姉さんと一緒に死んでしまった、憎い男の娘なら、

もう触れたくないと言われるかもしれない。




それでも……。




「蓮……話があるの、聞いて」

「うん」


私のすべての想いをかけた告白が、今、滑り出した。





12 残された想い へ……




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コメント

非公開コメント

18年前のこと

mamanさん、こんばんは!


>お父さん、不倫じゃなかったんだ。
 よかったけど、蓮君の親を納得させるのは難しそうだよね。。。

二人中心の話しから、家族を巻き込んだものに、変わっていきます。
敦子と蓮とでは、出来事への思いが違っている部分もあるので、
この告白がどんな展開をうむのか、来週までお待ち下さい。

18年前のこと……Ⅱ

yokanさん、こんばんは!


>予想が当たってしまった(T-T)
 亡くなった人は何も語れないから、生きている人は辛いわ(ーー;)

うーん……そうですよね。
降ってきてしまった事実です。何も知らなかった敦子と、すでに知っている蓮、
これからの告白が、どんなふうに気持ちを動かすのかは、
ぜひぜひ、続きにお付き合いしてください。

二人の未来は……。どうでしょうか。