1 憧れ 【1-2】


【1-2】


「はい、お待ちください」


良牙は温めてあるカップを取り出し、ブレンドの準備をし始めた。

少し前に店を出て行った人の席に、パートの女性が向かい、

お盆にカップやナフキンを乗せて戻ってくる。


「返事、ちゃんとしてくれないし……」

「忙しいんだよ」


栞はそれなら余計なことを言わないでよと言い、サンドイッチを食べ終え、

両手でカップをつかみ、何度か口元へ運んだ。

目の前では良牙がブレンドのカップを持ち、自らカウンターを出ると、

客のところまで運んでいく。


「今日はいつもよりお早いですね」

「あ、そうだね。予定の仕事が明日になってさ」

「あぁ、そうですか」


常連の顔を覚えて、ちょっとした会話をする。

相手は、自分を覚えてくれていたという安心感と嬉しさに、

自然とまた、足が店へと向いてくる。

栞は横目で良牙を見ながら、あまり相手にしてもらえないことを不満に思い、

浮いている足で椅子の脚を軽く蹴った。

食事は10分で終了し、その後、数分間ただ椅子に座る。

壁にかかる時計がいつもの時間を示したので、栞は席を立った。


「良ちゃん。明日はナポリタン!」


栞の言葉に、良牙は左手を軽くあげる。

やっと気持ちが通じた気がして、栞は少し動きたくなる口元を結びながら、

『ライムライト』を出た。

外に停めた自転車にまたがり、少し前に来た道を戻っていく。

良牙は、栞の自転車が動き、姿が見えなくなったことを確認すると、

カウンターの後ろにおいてあるメモに、『ナポリタン』と書いた。





午後6時。

『ライムライト』は、その日の仕事を終えた人たちが、

安らぎのために1杯のコーヒーを飲み、家路へ向かうという時間になった。

昼間、洗いものや接客をしていたパートはもう勤務を終えていたが、

その場所にはセミロングの髪をひとつにまとめ、

乱れそうになる短めの髪をピンで留める別の女性が入る。


『直江すみれ』


すみれは主婦相手のフィットネス教室で、インストラクターの仕事をした後、

週に数回、『ライムライト』のウエイトレスをしている。


「良牙」

「あ……ごめん、これ、一番奥」

「はい」


良牙からカップを受け取ると、すみれはお盆に乗せ、

腕を組み待っている男性のところへコーヒーを運んだ。

空になったお盆を棚の上に置く。


「……ナポリタンか」

「ん? あぁ、うん」


すみれは、そのメモを見た後、他の紙と紛れないように、ピンで壁に留めた。

そして、洗ったカップを棚に戻す。

店内に残っている客たちも、8時閉店だということがわかっているので、

徐々に減り始め、時計が7時半を示したときには、

客は、何やらノートに書き込んでいる大学生と、

少し疲れ気味のサラリーマン2人だけになった。


「栞ちゃん、ここのところ、昼間しか来なくなったのね」

「昼間も来なくていいって言ってるんだよ。
あいつ、1時間しか休憩がないのに、ドタバタとさ。
ほとんど自転車こいでいるだけだぞ。時間がもったいない」

「それは良牙がここにいるからでしょ」


すみれはそういうと、栞がよく座るカウンターの端を見た。

今は誰の姿もないが、2ヶ月くらい前、自分のことをじっと見ていた栞の顔を思い出す。


「あなた誰ですかって顔で、じっと見てたのよね、栞ちゃん」

「すみれ……」

「栞ちゃんにとっては、良牙が全てだったのかな」


すみれはそういうと、またカップを棚に入れていく。

残っていた客も立ち上がり、閉店10分前には、誰もいなくなった。

店内は、洗い終えた食器が重なる音だけが、回る。


「あいつはさ、長い間狭い世界で生きてきたから、
いまだに色々な情がひとつにまとまってるんだ」

「情?」

「あぁ。栞にとって、『愛風園』の職員以外で、身近な異性は俺だけだった。
俺は兄貴でもあるし、どこか父親でもあるし、
で……まぁ、ある時期まで一番の理解者だったのかもしれない」

「理解者?」

「うん……」


すみれは棚の扉を閉め、布巾を4つに折る。


「ずいぶん押さえ気味の言い方ね。『恋人』とは言わないの?」


すみれはそういうと、カウンターの奥にある小さな椅子に腰掛けた。

良牙はすみれを見る。


「お前、本気で言っているのか。あいつと俺は、5つ違うんだぞ。
俺が『愛風園』を出たとき、栞はまだ13だった。
『恋人』なんて気分、あるわけがないだろう」



『良ちゃん……』



「あいつと俺だけだったんだ。10数人暮らしている『愛風園』の子供の中で、
預けられてから1度も親や親戚が面会にも来ないし、正月だとか夏休みだとか、
そういう子供のイベントの時にも、施設を出たことがなかったのは。
毎年、いつもこたつに並んで紅白見て……いつの間にか眠っていて……」


良牙はコーヒーのカスを集め、それを袋に詰めた。

役目を終えたものなのに、最後の頑張りで香りがあがる。


「一度も?」

「そう、一度も……。お前には信じられないだろうけどね」


良牙はそう言いながら、袋の口を閉じる。


「俺が小学校3年の時だ、3歳の栞が施設に入ってきた。
ピンクのウサギだったかな、ぬいぐるみを握り締めて、
ただ不安そうにきょろきょろしているだけで、いつまでも落ち着かないし。
誰かが後ろを通るだけでビクッと驚くし、すぐ泣くし。
だから、俺が兄貴だよって、そんなふうに……」

「ふーん……」

「ひよこが初めて見たものを、親と思うのと同じ」

「エ……それって、たとえがおかしくない?」

「いや、そんなものだよ。あいつは、親にも優しくされたことがなかったから、
だから、自分にかけてくれる言葉を、素直に受け入れる。
栞はきっと、いまだに『本当の恋』をしたことがないんだ」


良牙は使っていた材料を、冷蔵庫に戻していく。


「不安なことばかりだったから、少しでも安心できるものをすぐ得ようとする。
ただ、それだけだよ」


良牙とすみれが話をしていた頃、栞は3駅分の距離を自転車で走り、

自宅前まで到着していた。

マンションの駐輪場に自転車を止め、しっかりカギをかける。

今日は木曜日。炊事当番は同居人である朱音のため、

買い物をすることなく、部屋へ戻った。

階段を上がり、3階の廊下を歩く。『302』の部屋番号を確認し、カギを探した。

カギを開けて中に入ると、テーブルの上には豪華そうな重箱が置いてあり、

朱音はテレビを見ていた体を栞の方に向ける。


「何、これ」

「お帰り、栞」

「うん」


同居人の朱音は、今日は買い物に出かけて疲れてしまったので、

デパートの売り場で、豪華なお弁当を買ってきたのだと説明した。


【1-3】



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