3 心の安らぎ 【3-5】


【3-5】


「いらっしゃいませ」

「うん」


その日も、多田は栞の前に現れた。

今日は仕事で少しいいことがあったという多田の言葉に、栞はよかったですねと、

笑顔で返事をする。


「『リオ』ちゃんのおかげかもしれないんだ」

「私のおかげ?」

「そう。ここのところ少し、変化が出できた。以前は、若い者の気持ちなど、
わからないのは当然だと、自分自身が逃げていたからね。ほら、言っただろ、
子供たちともコミュニケーションを取るのが難しくて、つい、避けてしまっているって」

「はい」


確かに、栞の前で笑う多田の表情は、今までよりも少し華やいで見えた。

優しさの上に、気持ちの向上を付け足したような、

どこか吹っ切れた清々しささえ感じてしまう。


「本当だよ、『リオ』ちゃんと語れている自分が、年齢をこう戻しているような、
気分でね」

「はい」


若さを取り戻せているという台詞に、栞は一度だけ頷いた。

『役に立てている』という満足感が、栞の心の中に、じわりと広がっていく。


「……『リオ』ちゃん」

「はい」

「いや、『リオ』ちゃんではないな。でも、僕は知らないからそうとしか言えないけれど」


多田は手に持っていたグラスを置き、栞の方を向く。

まっすぐに向けられた視線に、栞は思わず下を向いてしまった。



「これから先も、会ってもらえないだろうか」



ドキンドキンと脈を打つ音が、多田の耳に届くのではないかと、栞は大きく息を吐いた。

迷わせる言葉であることは間違いないのに、心のどこかで待ち望んでいた気もしてしまい、

どういう表情を見せたらいいのか、混乱してしまう。


「こんなふうに食事をしたり、ちょっとした話しをする……そんな時間が、
君と持てたら。僕のこれからの人生が、もっと楽しくなるとそう思えるから」


お店ではなく、『リオ』という仮面を被った状態ではなく、

会津栞として、多田等という男性と向き合う時間を持つこと。

何度も読んだ漫画の中に出てくる、ヒロインの父親のように、

優しく広い心を持った、45歳の男性。

良牙でも、朱音でもなく、栞の心の叫びを聞き、それに答えてくれる存在。

栞は、答えそうになる唇を、必死に閉じる。


「無理はしなくていいからね。最初から言っているけれど、
僕は『リオ』ちゃんを困らせたいわけじゃないんだ。ただ、言わずにさよならをしたら、
きっと、後悔すると、そう思えてしまったから。年甲斐もなく、言ってしまった」


多田はそう言うと、明日返事を聞かせて欲しいと残りのお酒を飲み干した。





栞は、その日の仕事を終え、朱音より先に部屋へ向かった。

駅から部屋まで、自転車を押していると、携帯にラインが届く。

片手で自転車を持ち、左手で携帯を開いた。

相手は良牙だった。

栞はその場に自転車を停めると、街灯の下でラインを開く。



『おい、元気にしてるのか』



良牙からの文面は、たったそれだけだった。

それでも、自分のことを気にしてくれたという思いが先に立ち、

自然と顔がほころんでいく。



『良ちゃん、楽しいお酒を飲んだので、気分最高です』



目一杯絵文字や楽しい雰囲気を出し、栞は良牙に送信する。

ラインはすぐに飛んでいき、送信時間が横についた。





そして、栞がヘルプとして店に入る最後の日を迎えた。

お店が開く前にママから挨拶をされ、栞が頑張っていた2週の間に、

また新しいホステスが2名、入ることになったと教えてもらう。


「多田さん、今日もいらっしゃるでしょうけれど、『リオ』ちゃんが来なくなったら、
お店からも消えちゃうかしら」

「いえ……そうおだててくれただけですよ。
若い人と話をするのが楽しいと言われていたので、また、きっと」

「そうだといいんだけどね」


栞は、その日、初めて自分で化粧をし、髪をアップに変えた。

少し首周りが寒い気がしたが、そのくすぐったさもすぐに消え、

カーテンを開けた時に見えた多田の顔に、すぐ手を軽くあげてしまう。


「どうしたの『リオ』ちゃん」

「おかしいですか?」

「いや、おかしくなんてないよ。でも、予想外の雰囲気だったから、
少し戸惑っているところはあるかな」

「戸惑う?」

「あぁ……」


多田はそういうと、いつもの酒をつくって欲しいと栞に頼んだ。

栞は『はい』と答え、グラスと氷を用意する。


「……ずるいな、『リオ』ちゃんは」


栞は何も言わないまま、すっかり慣れた配合で、多田の望むお酒を作り、

それをコースターに乗せた。


「でも……綺麗だね」


栞が顔を上げると、いつもと変わらない、優しくて、温かな微笑みが目の前にあった。


「自分が男だったのだと、あらためて思うよ」


多田はグラスを持ち、黙って酒を飲み始めた。

栞は耳につけたイヤリングを気にしながら、黙ってしまう。

その日は、ほとんど会話らしいものはなく、ただ、流れていく時間を共有するだけになる。

多田は、コースターを裏返しにすると、携帯番号の数字を書き残した。

それを黙ったまま、栞の前に出してくる。


「僕の携帯だ。もし、『リオ』ちゃんが、
こんな男の話に耳を傾けてくれる気があるのなら、連絡をして欲しい」

「多田さん」

「ごめん。今日返事を聞くようなことを言ったけれど、
今日はこのまま夢のように終わって欲しいんだ」


多田は、ポケットにペンを戻す。


「『リオ』ちゃん。何度も言うけれど、無理はしなくていい。
君が他に仕事を持ち、偶然ここにいたのだということも、わかっているから」


栞は他のホステスが立ち上がり、近くを歩きそうになったので、

そのコースターを、テーブルに置いたハンカチの間に挟み込む。


「『リオ』ちゃん」

「はい」

「楽しい時間を、ありがとう」


そういうと、多田はこれで帰ると席を立った。

いつもより早い時間だったが、明日、仕事で遠出をするのでという理由を聞き、

慌てて立ち上がる。


「こちらこそ、色々と声をかけてくださって、嬉しかったです」


褒められた記憶も、人に求められた記憶も、

栞にとっては、はるか遠くにあるものだったが、この数日間で、

色々と味わわせてもらえた。


「それじゃ」

「はい、ありがとうございました」


多田は会計を済ませ、店を出る。

栞は、多田の姿が見えなくなるまで見送り、しばらくその場に立ち続けた。


【4-1】



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