8 ためらい 【8-1】

8 ためらい


【8-1】


陽人は、大学時代、陸上競技の練習中、突然倒れてしまった。



緊張と疲れなどから、『不整脈』を引き起こしてしまうもので、

外科のように、ただ、時を待てば治るものではないことも知ってしまう。



『競技者として走ることは、辞めたほうがいい』



当時、医師になって3年目の奥村は、そう陽人に宣言した。

陽人はそんなことはない、たまたまこうなっただけだと言い返したが、

それを一喝される。



『長い人生、棒に振りたいか!』



死と直結する病ではないけれど、日常生活ではなく、競技生活となれば、

多少の無理もしなければならないと強く言い、そうすれば他のところも悪くなると、

ストップをかける理由を語った。

奥村は唇をかみ締める陽人に、治療の度に、何度も何度も言い続け、

二人はその度に言いあいとなり、時には陽人が診察室を飛び出したこともあった。


「あの時はな、俺も辛かったんだぞ」

「わかってます」

「外科のように傷が見えないし、本人にしてみたら普段は何も問題ないわけだ。
どうしてって思いを払拭できない。だからこそ、中途半端なことはせずに、
競技は諦めろというしかなかった」

「はい」


陽人は懐かしいですねと笑いながら、奥村の方を向く。


「医師なんて、こっちの気持ちも考えずに、勝手に判断するだけで気楽なものだって、
腹を立てながら入院していました。でも、その中でラジコン飛行機に出会ったんですよ。
それも、先生でしたしね、きっかけは」

「ん? あぁ、いや。あれは小児病棟の入院患者の子だろ」


何も問題がないのに、検査を何度もされ、入院を繰り返した半年の中で、

陽人の意欲はすっかり消えていた。何をするにも力が入らず、

大学にもあまり顔を出さなくなり、気付くと単位も危ない状況だった。

陸上競技が出来ないのなら、大学も意味がないのではないかと、

病室の窓から外を見ていたとき、小児病棟に入院していた男の子が、

奥村と小さなラジコン飛行機を飛ばしているのが見えた。


「そうでしたね、あの出会いがなかったら、今の僕はないと思います」

「そうか」

「はい」


陽人は、それからずっと、何か辛いことがあるとラジコンに触れ、

飛ばしに行くことを繰り返してきたと、自分の思いを語り続ける。


「だから、もう走りたくないんですよ。どんな状況でも」


陽人は、たとえ電車に乗り遅れそうになっても、横断歩道の信号が点滅しても、

『走る』という選択肢は取らずに、次を待つようにしてきたのだと、そう言い続ける。


「次を待つことに慣れました。だから、今更ウォーキングをして、
それからまたジョギングをしてなんて、トップを目指せないのに、僕には……無理です」


走れていた頃の自分を思い出す行為は、出来る限りしたくないと言い、

陽人は『ふぅ』と息を吐く。


「そうか……」

「はい」



『悪いと思っているのなら……』



「あ……」

「何」

「いえ、でも、そのおかげで、少し変な人間だと、思われていますが」

「変な?」

「はい。川沿いに座っていたら、急に雨が降ってきて、
隣にいた人たちは雨宿りできる場所まで走ったんですけど、
僕は走らなかったので、スーツが濡れてしまって。
で、別の日には、僕の荷物が坂道を落ちそうになったことに気付いて、
支えてくれた人がいたのですが、横断歩道の向こうから
『すみません』と頭を下げたのに、いざ、信号が変わっても、
僕が走らず歩いて行ったので……そう、偶然、両方とも同じ女性だったんですよ。
その人に、少し呆れられました」


陽人は栞とのエピソードを思い出しながら、並べて語った。

奥村は、陽人がどこか楽しそうに話すのを聞き、少し口元をゆるめながら、

またカルテに手を動かす。


「まぁ、そうですよね。普通、両方とも走る場面でしたから」


お腹を鳴らしおにぎりをもらったり、POPのことを謝罪して、ブーケを買ったり、

どこか栞との場面は、陽人に分が悪かった。

奥村は、次回の予約をいつにするかと陽人に問いかける。

陽人は、手帳を出しめくり始めた。


「まぁ、出会いなんて色々だぞ、陽人」

「エ……」

「なんだこの人って思われていても、そこからまた変わるかもしれない」


陽人は、奥村がどうしてそんな言い方をするのかわからず、

手帳を見ながら、頷くだけだった。





カレンダーは10月後半になり、朝の風が冷たくなった。

栞は毎日花の手入れをし、日が進むのを待つ。


「今日は、食事いいから」

「うん、勉強の日だよね」

「うん」


カラーの本を持ち帰ってから、朱音にはすっかり学校に通っているのだと、

信じられていた。親友を騙していることに、どこか罪悪感はあったものの、

それを流してしまうだけの魅力が多田との時間にあり、

今の栞には、何にも変えられないものになっていた。





「ほら、開けてみて」


多田は栞の前に少し長めの箱を置いた。栞はリボンをほどき、その箱を開ける。

シルバーのネックレスが光り、真ん中には羽根をモチーフにしたトップがついていた。

その羽根を引き立てる薄いブルーの宝石が、きらりと光る。


「これ……」

「栞に似合うと思って、買ってしまった」


多田はそういうと、どうかなと栞に尋ねた。

栞は、ありがとうございますと言いながらも、手が出ていかない。


「どうしたの、気に入らないの?」

「違います。こうして食事のお金も出してもらって、それなのにこんな……」


プレゼントを受けることが申し訳ないと、栞は少し戸惑いの表情を見せた。

多田は、気にすることなどないんだと、栞に微笑みかける。


「栞の大切な時間を、僕のために使わせているだろ、そのお礼……というか、
こうしてあげたくて仕方がないんだよ。僕がそうしたいと思うのだから、
君は何も気にしなくていい。もっと、もっとかわいらしく、愛しくなってほしい」


多田は、ネックレスの箱を栞の方に寄せる。


「多田さん。お礼だとか言わないでください。
私自身、あなたと一緒にいたくて、ここにいるだけですし……」


栞は、気をつかわれてしまうと、会いづらくなりますと、そう多田に言った。

多田はそうかと少し困った顔をする。


「栞には、負担なのかな、こういうことは」

「負担というより……」

「申し訳ないというのなら、本当に気にしないで欲しい。
本当に、栞を輝かせたいと思うだけだ。僕にはそれがしてあげられる」


多田は栞の目をじっと見た。


「君を、心から愛しているからね……」


『愛している』

プレゼントを受け取ることは申し訳ないと思いつつも、

栞は、それと一緒に多田が出してくれる言葉の力に、それ以上、何も言えなかった。


【8-2】



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