9 揺れる心 【9-4】


【9-4】


強い音がした後、栞のカフェオレと朱音のブレンドコーヒーが、

衝撃に揺れ、カップから外にあふれ出てしまう。


「良牙……」


カウンターの中にいたすみれは、布巾を手に持ち、外に出る。


「何がわかっているんだ。不倫だぞ、どういうことなのかお前……」

「子供じゃないものわかっている。多田さんの年齢も、状況も、全てわかって」


栞はうなだれる良牙の方を向いたままで、言い続けた。

多田という男性が、自分をとても大切にしてくれて、優しい言葉をかけてくれること、

仕事の愚痴も色々と聞いてくれて、それについてもアドバイスをくれること。

一度切り出した多田のことは、栞の口からどんどんあふれて出て行く。


「私が言って欲しい言葉を、多田さんはいつも言ってくれる。
ただ納得しろじゃなくて、諭すように語ってくれる……」

「栞……お前」

「良ちゃんのように、頭から怒鳴ったりしないし……」


栞は両手を握り締め、良牙を見た。

この世の中で、一番好きだと思っていた人に、何もわかってもらえていないという、

悲しい気持ちだけが前に前にと押し出されてくる。


「幸せだと思えるんだもの」

「幸せ?」


良牙は栞の言葉に顔を上げた。

栞は、その目から逃げることなく、見続ける。


「そう、そうだよ。抱きしめられていると、幸せだと思え……」


良牙は栞の言葉を聞き終えることなく、右手で栞の頬を思い切りはたいた。

栞はぐらつき、またカフェオレのカップがガシャンと音を立てる。


「良牙、何するの」


すみれの言葉と同時に、栞は立ち上がり、そのまま店を飛び出てしまった。

慌てて追おうとした朱音を止め、すみれが飛び出していく。

店の扉がバタンと閉じ、朱音と良牙だけが残される。


「良ちゃん……」


朱音は勢いで落ちてしまった栞のバッグを拾う。


「……叩いちゃダメだよ」


朱音の言葉に、良牙は椅子に座る。


「あいつ……」


良牙は叩いてしまった右手を握り締めたまま、そばにあった椅子を蹴り飛ばした。





栞は飛び出したものの、感情のままに走り出したので、

道もわからず、ただまっすぐに進むしかなかった。

追いかけてくる足音に、やがて腕をつかまれる。


「栞ちゃん……」


追いかけてきたのはすみれで、栞は離して下さいと、声を出す。


「どうしてもと言うのなら離してもいいけれど、私、インストラクターだからね。
体力には自信がある。どこまでも追って、絶対に逃がさないから」


すみれの言葉に、栞は唇をかみ締め、ただ腕を振り切るだけだった。





栞は、公園のベンチに座り、灯りに向かって飛んでいく虫の動きを眺めた。

すぐそばには携帯を持ち、連絡をするすみれがいる。

誰と話をしているのか聞いたわけではないが、状況と『大丈夫』という台詞が、

良牙ではないかということを想像させた。


「一度ね、栞ちゃんとゆっくり話しがしたいと思っていたの」


その台詞に、栞はすみれを見る。


「私は別にありませんって顔だけど……」


すみれはそう言うと、栞の隣に腰かけた。時間は9時近くになる。


「痛かった? 叩かれて」

「痛いですよ、当たり前じゃないですか。良ちゃん、喧嘩ものすごく強いんですよ、
体は結構、細身なのに」

「知ってるわよ。良牙が喧嘩に強いってこと。昔は色々と悪いこともやって、
警察のお世話になったこともあるって話しも聞いた」


すみれは、自分の両手で拳を作り、軽いシャドーボクシングのような仕草をした。

栞は、すぐに目をそらす。


「私の話し、聞いてもらいたいの。関係ないです。
聞きたくありませんって言われる前に話しちゃうけど……」


すみれはそう言うと、コホンと軽く咳払いをした。

栞は、逃げだそうとしても変わらないのだと思い、下を向く。


「今から2年くらい前、私もある人とお付き合いをしていたの。
その人、大学の先輩で、昔から人気者だったし、とっても優しい人だった。
お付き合いを始めてからも、いつも私のことを心配して、
相談すれば何でも答えてくれて。そう、電話が何度もかかってくることに、
『あぁ、これだけ愛されているんだな』って、気分をよくして」


すみれは、良牙と出会う前につきあっていた男性は、連絡をこまめに取り、

女性に対しても紳士的な人だったと、そう語り出した。

始めはその優しさに酔いしれていたが、付き合いが深まると、

『優しさ』だと思っていた部分を、『束縛』だと思うようになったと言う。


「今、何している? どこにいる? どうしてすぐに連絡しない……
仕事もあるし、電話出来ないときもあるでしょ。そういう付き合い方に、
だんだん嫌気がさしてきて、結局、私の方から別れを切り出したの」


相手は大学の先輩だったため、

すみれは、勉強もスポーツも出来る、素敵なところをたくさん知っていた。

別れた後も、素敵な男性のままでいてくれると望んでいたすみれの願いは、

『ストーカー』という行為に、踏みにじられる。


「ストーカーですか?」

「そう、別れを切り出してから数日後、急にマンションの前に現れたの。
何時に職場を出たのに、どうしてここまで遅いんだとか、別れるなんて言って、
こっちの気持ちを試しているのかとか」


相手のストーカーは何度か続けられ、すみれは近くの警察に頼み、

一時的に、解消することには成功した。その間にすみれはマンションを探し、

新しい生活をするのだと決め、引っ越した。


「それが今のマンション。『ライムライト』からそう、本当に5分くらいのところなの。
駅を降りて、まっすぐに歩いてくると『ライムライト』があるでしょ。
お店を出て、ひとつ角を曲がってまっすぐ……」


すみれは、右手で直角の動きを見せる。


「そう、ほんとにただまっすぐ、歩くだけでつけるのよ。
でもね、仕事のスポーツジムから戻ってきて、駅で降りるでしょ。
そこから少し進むと、足が動かなくなるの。あの見えている角を曲がればいいんだって、
何度も自分に言うんだけど、動かなくて……」


すみれは、曲がったときに、元彼が現れるのではないかという恐怖から、

どうしてもまっすぐに進めず、『ライムライト』に飛び込んでしまったのだと言う。


「『ライムライト』の灯りが救いのように思えたの。
『どうぞ、休んでいってください』って、そう言ってくれているように感じてしまって」


すみれはコーヒーを頼み、窓際の席に座ると、じっと店の前を通る人を見たという。

同じマンションの人が通ったときに、自分もついて行こうと思っていたが、

そんなにうまくいくはずがなく、『ライムライト』は閉店を迎えた。


「ふと気づいたら、誰もいなくなっていた。だから、私も出なくちゃって立ち上がって、
外まで行くのだけど、どうしても家の方向に足が動かないの」


すみれは、結局、店の外に立ち続けた。

その間、良牙は片付けをし、外にある看板をしまうために、出てきたという。


「その時、初めて良牙が言ったの。どうしたのですかって。
でも、話せなかった。あの人がどこかで聞いているんじゃないか、
周りの木の近くで、こっちを見ているんじゃないかって」


良牙は、すみれから無理に聞き出そうとはせずに、その後も看板を片付け、

店の灯りを消した。すみれは、頼りにしていた灯りが消えてしまったことで、

支えを失ってしまい、その場でしゃがみこんだという。


「暗くなるのが怖くて、タクシーを呼んでもらえないかって、
パニック寸前の状態で、そう頼んでいたの。良牙はそれを聞いた後、
自分も家に帰るから、一緒に歩けば済みますって、そう言ってくれて」


それからすみれは仕事の終わりが6時を過ぎ、空が暗くなると『ライムライト』に寄り、

コーヒーを飲み、店を閉めた後の良牙と、一緒に歩く生活をし始めた。


【9-5】



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