9 揺れる心 【9-5】


【9-5】


曲がり角まで来ると挨拶をし、そこからはまっすぐに走り、

マンション前まで来たところで、振り返ることを繰り返したという。


「毎日……ですか」

「そう、定休日以外は毎日。休みは自分で選べたから、
仕事の休みと『ライムライト』の定休日を合わせてね。でもね、
しばらくすると、『ライムライト』に寄ること自体が楽しくなっていたの。
あのお店、6時を過ぎて入ってくるお客様って、結構、ううん……
ほとんどご近所に住む常連さんで、みんな、仕事が終わった後、地元に戻ってきてとか、
職場から駅に向かう前に立ち寄ってとか、良牙とたわいもない会話をすることを
本当に楽しみにやってきていて」


すみれは、当時を思い出すのか、軽く微笑んだ。

栞は、すみれの表情をじっと見る。


「私は、席に座って、話しを聞いているだけだったけれど、
みなさん、顔を覚えてくれた」


すみれは、自分を知ってくれた人が増えたおかげで、

だんだん、ストーカーを気にせず、歩くことが出来るようになったのだと、

そう思い出を語り続ける。


「片付けを手伝って、もう1杯、コーヒーを飲ませてもらって、
それでマンションに帰る。それを2ヶ月くらい続けたときかな、
いつまでも良牙に頼ってはいけないと思って、私、ひとりで帰りますって、
そう宣言したの」


ストーカーになった男性からの連絡もなくなっていたため、

すみれはすっかり気持ちが入れ替わっていたのだと言う。

予定通り『ライムライト』に寄るけれど、

最後までいて良牙に迷惑をかけることなく、

一人で帰ることが出来ると証明するために、覚悟を決めて、歩き出した。


「何度か成功して、これで大丈夫だって思った日のことだった。
角を曲がってしばらく歩いて、あと少しでマンションだと思ったとき、
突然、脇道に引きずり込まれたの。腕を強く引かれて。
危うく、車に押し込まれそうになって」


すみれは、防犯のためにブザーも持っていたけれど、いざ、そういうときが来たら、

手が震えて動かなかったと説明する。

必死に声を出し、抵抗していると、そこに良牙が現れたとさらに話した。


「良ちゃんが?」

「そう、私を連れ去ろうとした相手の首に、自分の腕をかけて……」


良牙は、すみれが一度も見たことがない表情で、

一度も聞いたことがない声を出したと言う。


「良牙が、昔、とっても悪いことをしていた頃の声って言えば、
栞ちゃんにはわかるのかな」


すみれはそう言うと思い出しているのか、少し微笑んでみせる。


「良ちゃん、お店はどうしたんですか」

「うん……そう思うでしょ。実はね、私がもういいですって断ってからも、
良牙はこっそりうしろを着いてきてくれていたの。私が角を曲がって、
マンションの中に入るまで、見届けてくれていた。
お店は、まぁ、閉店に近いこともあって、お客様が増える時間ではなかったから、
扉に『5分くらいで戻ります』ってプレート貼り付けて」

「プレート?」

「うん……それもね、いつも来てくれている常連さんが、言ったんだって。
マスター、彼女のこと気になるんだろ、だったら見届けてくればいいって」


常連さんは、良牙の思いも、すみれの思いも理解し、

みんなで留守番を引き受けたのだと言う。


「私、みなさんがそう言ってくれていることも、何も知らなくて」


良牙が登場したことで、ストーカー男はすみれの手を離し、

慌てて逃げ出したという。車のナンバーを控え、

すみれはあらためて警察に連絡し、その男にはすみれに近づかないという

誓約書を書かせることにも成功した。


「その時に思ったの。私が、あの男から逃げられたのは、
もちろん良牙の力でもあるけれど、
その良牙の日頃の仕事ぶりを見てきてくれた人たちの、協力があってなんだって」


すみれは、良牙が一生懸命に店を切り盛りし、1杯のコーヒーを真剣に作り、

一人一人のお客様を大事にしてきた、その長い信頼をわけてもらったんだと、

そう話しを結論づけていく。


「栞ちゃんがね、その男性が素敵な言葉をかけてくれたって、訴えていた気持ち、
よくわかる。私もそうだったから。前の彼は、『好き』だとか『愛している』だとか、
よく口に出してくれる人だった」



『綺麗だ……』



栞は、そう言ってくれた多田の言葉を思い出す。


「言葉が自分に降りかかるのは気持ちがいいし、安心する。
それに比べて、良牙はほら、あんなふうでしょ。口が追いつかなくて、
栞ちゃんに手をあげてしまって」


すみれは自分の右手を目の前に出し、はたくまねをした。

栞は黙ったまま、口を結ぶ。


「でも……言葉って、本当は怖いところがたくさんある。
だって、思っていなくても言えるじゃない。ほら、私もそう、
ものすごく嫌なお客様が来ても、
最後は『ありがとうございます、また来てください』って、そう言えるもの」


言葉ではない優しさ。

すみれは、良牙のことを、そう評価していた。

自分が着いてきているのだと、アピールすることも無く、ただ、黙って、

見つめてくれていたこと。


「私に負担をかけずに、でも、見届けてくれていた。
そんな良牙の気持ちが嬉しくて、自分から言ったの。
マスター、もし、お付き合いをしている人がいないのなら、私はダメですかって」


すみれは、そんな自分の行動を思い返し、照れくさそうにそう言った。

栞は、自分を叩いた時の、良牙の表情を思い返す。

憎いと言うよりも、悲しさの方が強く思える表情を見たのは、久しぶりだった。


「栞ちゃんと朱音ちゃんのこと、良牙は本当に気にしているのよ。
よく、二人のことは話題に出るし。もう、どういう関係なのって聞きたくなるくらい」


すみれは、良牙にとっては、栞と朱音だけが『家族』と思えるのだろうと、

そう話を結論づける。

北風が、公園に残る二人に、厳しい寒さをぶつけてきた。

すみれは、飛び出てきたからと言いながら、自分の手で腕をさすり始める。


「帰ろう、栞ちゃん。良牙もきっと、叩いてしまったこと反省している」


栞は黙ったまま下を向く。


「きっと、落ち着いて話すべきだったって、思っているから」

「思ってくれているかな」

「思っているわよ。だって良牙、優しいもの」


すみれはそういうと、栞の肩をポンと叩く。


「栞ちゃんと朱音ちゃんには、堂々と良牙の前に連れてこられる人と、
素敵な恋をして欲しいのよ。そんな気持ち、わかるでしょ」


栞は黙ったまま立ち上がり、一度ため息をついた。

扉を開けると、いつもどこかほっとするような良牙の顔を思い出す。


「ごめんね、色々と余計なことを言って」


すみれの言葉に、栞は首を振り、『ライムライト』に戻る道を、

ゆっくりと歩き出した。


【10-1】



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