36 大切な思い出 【36-4】


【36-4】


『ベビーランド』があるビルの向かい、その喫茶店の椅子に座り、

雄太は本を読み続けていた。ふと顔をあげたときに、時間を確認すると、

朱音が勤務を終える5分前になっている。

そろそろ種明かしをしようと携帯を取り出し、朱音宛てにメールを送る。

ここからは階段を見ているべきだろうと本を閉じ、カップを口に運んだ。



「江梨子先生、出て来て」


江梨子を出す任務は、主任の女性に変わった。

声が変わったことに気づいたのか、江梨子は鍵をはずし、外に出る。

たった10分程度のことだったが、

主任は自分が何をしているのかわかっているのかと問いかけ、

江梨子は黙ったまま何度か頷いた。

ゆっくり職員室の方へ戻ると、座っていた『のぶくんとかなちゃん』の前に立つ。


「ごめんね……先生が悪いことをしてしまった」


江梨子はそういうと、床に座り、二人に頭を下げた。

のぶくんとかなちゃんは黙って聞いていたが、かなちゃんの小さな手が、

江梨子の頭に伸びる。

朱音は、小さな子供の怒りが爆発するのかと、身構えたが、

かなちゃんの手は、江梨子の頭に触れると、左右に優しく動いた。


「ごめんなさいって言ったらね、ママ、いつもいい子だって……こうするの」


かなちゃんがそういうと、のぶくんは黙って椅子を下りてしまう。


「のぶくん……」


声をかけた朱音に抱きつくと、のぶくんは声をあげて泣き始めた。

朱音はのぶくんを受け止めながら、ただ、ゆっくりと背中をさすり続ける。

その日、朱音が『ベビーランド』を出ることができたのは、

予定よりも30分以上、遅れてからのことだった。





「そうか……」

「うん」


予定通りに朱音が出てこないことで、やきもきしていた雄太も、

事情を聞き、納得するようにうなずいた。朱音は、食事の手を途中で止める。


「切なくなっちゃった。のぶくんはね、自分が江梨子先生がって声をあげたことが、
とっても悪いことをしたような気になって、泣いてしまったの。
本当に、罪なことをしたと思う」

「そうだね」


朱音は、幼いころの自分と、今日の2人の行動を重ね合わせながら、

だんだんと目が潤みだす。流れた涙に気づいた雄太は、自分のポケットに触れ、

ハンカチを出そうとするが、入っていないことに気づく。


「子供って、とことん信用しようとするんだよね。親とか、保育園の先生って、
自分にとっては絶対に『いい人、優しい人』なわけで」


朱音は、頬を涙が伝っていることにも気づいていたが、そう話し続ける。


「私もそうだった。小さい頃は、お母さんが本当に大変で、
自分がここでいい子にしていないと、困ってしまうと、真剣に思っていたし」


朱音の脳裏に、『愛風園』の玄関で手を振っていた母の姿が浮かぶ。


「何をされても、きっと次はって……けなげだよね」


雄太は自分のバッグを開け、そこに入っていたポケットティッシュを出し、

テーブルの上に置いた。しかし、それは何かに挟まれていたのか、少し折れ曲がっていて、

なんとなく頼りない。

朱音は、一度軽く鼻をすすると、自分のカバンからタオルのハンカチを出し涙を拭う。

雄太が出したティッシュを指で押し返した。


「なんだかこれ……汚い」

「汚くないよ、ちょっとよれっとしているだけで……」


必死になる雄太を見ながら、朱音は目をハンカチで押さえ、今度は笑い出す。


「エ……何」

「もう……雄太さん……」


朱音も本当に汚いと思っていたわけではなく、どこか照れもあった。

こんなちょっとしたことの中にも、雄太に思われていることがわかり、嬉しくなる。


「のぶくんも、かなちゃんも、大丈夫だよ。受け止めてくれる人が、
ちゃんといたわけだから」


雄太はそういうと、『保育士』は朱音の天職だと、嬉しそうに言い始める。


「雄太さん」

「はい」

「もう少し、厳しいことも言ってくれないと、私、浮かれた人間になりそう」


朱音はそういうと、嬉しそうに笑い、また食事を続けた。





『多田等 資料室勤務を命ずる』



多田が『アンナ』との問題を起こし、上からの異動命令が下されたのは、

1週間後のことだった。戸柱にいる陽人にもその情報は伝わったが、

特に関係があるとは思えず、仕事をもくもくと続けていく。


「来週にでも、本社からいろいろと送られてくるということだけれど……」


工場長の福岡は、静かでのんびりした場所だったのにと、

本社からの監視が強くなることを、面倒くさそうに言い始める。

事務を担当する麻希はその言葉に一度だけ視線を上げたが、

またすぐに電卓をたたき始めた。

陽人も、細かいことには触れないまま、データを追っていく。

すると、外階段の音が大きくなり、達吉が飛び込んできた。

福岡は驚き立ち上がって出迎えるが、陽人と麻希は動じることのない態度を見せる。


「福岡さん、急になんだね、本社からあれこれ人がとは」

「あぁ……はい。私にも事情がよく飲み込めていないのですが、これからは、
下請け任せではなく、ここも本社と全てをつないで、総合管理をと……」

「総合管理?」


達吉は、福岡の斜め前で仕事をする陽人を見る。


「君……」


陽人は顔を上げた。


「はい」

「君は何やら物流センターの内部で、ものをいじくるのが好きだと聞いた。
花壇に種を巻いたり、本社の人間であるにも関わらず、マラソン大会にも出場だと……」

「はい。本社の人間が出てはいけないという規定はないというので」


陽人は、現場のみなさんと一緒に、頑張ろうと思いますと軽く決意を話す。


「余計なことはせずに、おとなしく去ることができないのか」


達吉は、おそらく自分が、この工場内をいいように動かしていたことを見抜き、

本社へ通達したのは陽人だろうと思い、顔をにらみつける。


「あのなぁ……」

「おじいさん、浪岡家に逆らったら、生きていけないなんていう、
悪い噂が流れているけれど、そうではないわよね」


陽人に向けられた視線を、奪ったのは孫の麻希だった。


【36-5】



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