36 大切な思い出 【36-5】


【36-5】


達吉は『どういう意味だ』と麻希を見る。


「確かに浪岡家では、このあたりにスーパーも持っているし、幼稚園とか、
あと駐車場、それに数件の賃貸マンションもある。戸柱で生活をしていたら、
生活のどこかで、関わってくることも多いとは思う。でも……」


陽人は意見をぶつける麻希を見る。


「人の心や人生まで、地元の主だからって入り込めるものではないわ」

「麻希……」

「私は、そう思いながらもどこかで諦めていた。何をしても、どこを見ても、
人の目があるようで嫌だった。
だから、親のあとを継いで幼稚園へ入ろうとも思わなかったし、
不動産会社で財産の管理をしようとも思わなかった」


『波岡家』の力が色濃く出る場所で、動くのは嫌だというのが、

麻希の精いっぱいの抗議だった。

達吉は、孫の訴えを聞き続ける。


「私はいつも思っていたの。誰か暴走に気づいてほしいって。
でも、『しなくら』からここに来る人たちは、
自分のことを考えるだけで精一杯の人ばかりだった。
どうしたら本社に戻れるのかとか、戻れないのなら、面倒なことはしたくないとか……」


麻希の目が、福岡に向かう。

福岡はすぐに下を向いた。


「新堂さんは、おせっかいなわけではないし、余計なことをしたわけでもないわ。
人として、ここに仕事へきた『しなくら』の社員として、当然のことをしたまでです」


麻希の言葉に、達吉から言葉が一切出なくなる。


「波岡家だからなどという、それこそ場違いな思いを捨てるのは、
おじいさんの方です」


麻希はそういうと、書類をまとめていく。


「工場長、私も仕事を辞めさせていただきます」

「は?」


麻希は言い切ったという意味なのか、大きく深呼吸をする。

突然の告白に驚いている陽人の顔を見ると、『どうかな』と言いたげな、

笑顔を見せた。





江梨子が『ベビーランド』を辞めるという話を聞いたのは、

事件のあった3日後のことだった。

朱音は、『そうですか』と返事だけを戻す。


「『のぶくん』も『かなちゃん』も、普段通り楽しく遊んでくれているでしょ。
それは江梨子先生にもきちんと伝えたけれど」

「はい」


主任の保育士は、1人少なくなったからといって、

子供達に迷惑をかけてはいけないと言いながら、掲示物を張り出していく。

朱音は朝の準備をこなしながら、江梨子のエプロンを見た。


「朱音先生、手伝って」

「はい、今行きます」


朱音はすぐに先輩のところに向かうと、重なったテーブルを並べ始める。

それから15分後には、母親に連れられた子供達が、明るく元気な笑顔で通園し始めた。





『戸柱交流マラソン大会』



そして、陽人が参加を決めた、マラソン大会当日がやってきた。

前日までの天気予報は、雨も少し降るのではないかというものだったが、

朝、空を見上げると、これ以上ないくらいの快晴になっている。

この日ばかりはと、栞もお店を休み、朱音や雄太も応援団として見に来ることになった。

朱音は信号が赤に変わり、スピードを落とした雄太の顔を見る。


「ねぇ、このペースで間に合うの?」

「間に合うよ、道路、順調だし」


レースに出る陽人本人は、リーダーの矢野に言われ、負担が少ないように、

前日は泊まらせてもらっている。

栞は、後部座席から、助手席で運転手の雄太に、あれこれ言い続ける朱音を見た。


「朱音、桐山先生が運転してくれているのだから、あれこれ言ったら気が散るよ」

「そうだけれど……」


朱音は、レースがスタートしてしまったら、雄太が行く意味がないとぼやく。


「意味?」

「そうでしょう。新堂さんが走り続けてもいいかどうか、
医者なんだから、判断できるでしょうし」

「エ? 僕が?」

「そうよ」


朱音の『当然』という態度に、雄太はそれは無理だよと言い返す。


「無理?」

「それはそうだろう。走り始めたら、新堂さんがどこにいるのかわからないし。
それを判断するとなったら、僕も一緒に走らないとならない」


雄太はウインカーを出し、右に曲がる。


「は? それじゃ……行く意味ないじゃない」

「意味はあるだろう、応援なんだから」


雄太の言い返しを聞き、朱音の不満そうな顔に向かって、

栞は『大丈夫だよ』と声をかける。


「陽人さん無理はしないって約束したから。奥村先生にもちゃんと確認したし。
本社への復帰が決まって、みなさんと過ごすのも最後だから、思い出に残したいって。
大丈夫……朱音」


栞はそういうと、お弁当の箱が入った袋のひもを握りしめる。


「大丈夫……」


朱音は、『大丈夫』を繰り返す栞が、本当は誰よりも心配しているだろうなとわかり、

一度息を吐いた。自分の出来ることは、栞を見守ることだと気持ちを切り替えた。


「そうだね、そうそう、新堂さんなら……」


朱音の脳裏に、いつも栞に寄り添おうとしていた陽人の姿が浮かぶ。


「栞が悲しむようなことは、絶対にしないよ」


そう力強く言うと、快晴の空を見ようと顔を少し上げた。





栞達が会場に着いたのは、レースが始まる30分前だった。

チームの応援団がいる場所を目指すと、先に来ていた仙台が栞に気づく。


「あ……どうも」

「あ……」


栞も、仙台が陽人の先輩だとわかったため、『お久しぶりです』と挨拶をする。

すると、その影から出てきたのが恵理だとわかり、思わず立ち止まってしまった。


「お久しぶりです」


恵理の言葉に、栞も合わせて頭を下げる。

お互いがどこか遠慮がちになるのもわかる仙台は、

『俺が誘いました』と栞に話す。

朱音は恵理が誰なのか、よくわからなかったが、

スタート近くに立つ陽人を見つけ、栞の手を取った。


「新堂さん! 応援に来たから! 頑張って」


朱音の声に気づいた陽人は、『ありがとう』と言いながら、手を振ってくれる。


「ほらほら、栞」

「うん」


栞が陽人に向かって、精一杯の笑顔を見せると、陽人もそれに答えるような、

表情を見せてくれる。その瞬間、大会役員から声がかかり、

選手達はスタート地点の集合場所に、集められた。


【37-1】



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