16 ひとり歩き

16 ひとり歩き

料理教室に通い始め、3週間が過ぎた。仕事と習い事のリズムが少しずつつかめるようになり、

なんてことのなかった日々が、私なりに充実する。

いつものように朝刊を社長のデスクに並べ、社員8人のお茶の準備をしていると、

専務と呼ばれる奥さんから声がかかった。


「垣内さん、ちょっとこれ届けてくれない?」

「はい、どこでしょうか」

「あのね、東城総合病院の給湯室にある水道をなおしたのよ、その請求書。
車あるけど、一人で大丈夫?」

「はい、なんとか行けると思います」

「ねぇ、ただ認め印を押すだけでも、あの病院は『30分待っていてください』って
絶対に言うから、笑っちゃダメよ」

「あ……はい」


そう笑いながら言った専務から、私は請求書を受け取り、会社の軽自動車に乗って病院へ向かう。

『松井水道』の採用条件の一つが免許だったため、会社の周りを少しずつ運転しながら、

ドライバーとしての感覚を思い出し、近頃は決まった道なら、

一人でも気分良く走ることが出来るようになった。


地下の駐車場に車を止め、総合受付へ行き、請求書を提出すると、専務から言われていた通り、

『30分お待ちください』と言われ、笑いたくなる気持ちを抑え、わかりましたと返事をした。


食堂か、休憩室で何か飲んでいようかと考えた時、以前聞いていた蓮の言葉が、

頭の中を横切った。



『母さんが来週から東城総合病院に入院することになって』



まだ蓮から、お母さんが退院したという話は聞いていなかったため、私の中の小さな心が、

少しだけ冒険しようと動き出す。まっすぐで、我が儘だけれど、

でも、とても優しい蓮を産んでくれた人は、いったいどんな姿をしているのだろうか。


人が行き交う病院なら、気付かれることなく姿だけを見ることが出来るかも知れない。

そう思った私は、受付で、心臓に不安なところがあるのだと告げ、循環器科を教えてもらい、

案内板を確かめ、エレベーターで病室のある4階へ向かう。

下りてすぐの場所にはナースステーションがあり、忙しそうに看護師達が動いている。


病室の前にある名前を確認しようとしたが、表示はなく、私の足が止まる。

プライバシーの保護なのか、どこを見ても、名字すら記されていなかった。

歩いているナースに聞いてみようかと思ったが、蓮のお母さんに気付かれては困るので、

あきらめて戻ろうとした時、一人の女性が目の前を通りすぎた。


片手はお菓子が入っているカゴを持ち、もう片方で点滴を引っ張ってはいたが、

明るい笑顔を見せている。


「あ! 広橋さん、どこに行ってたんですか? 検温の時間ですよ」


看護師の呼び止める声に、私が振り向くと、たった今目の前を歩いていった女性が、

すぐ後ろに立っていた。


「ごめんなさい、友達がお見舞いに来てくれて。ちょっと楽しい話をしていたら、
時間なんて過ぎちゃうのよ、すぐに! 検温を忘れたわけじゃないのよぉ……」

「もう、退院の許可が出たからといって、羽目を外すと、明日の数値が悪くて、
取り消しになりますよ」

「嫌よ……そんなの」

「ちゃんと守らないと、息子さんに言いますよ」

「あ……やめて、やめて。蓮は怒ると怖いの」


間違いなかった。この少し白髪が交じり、ウエーブがかった髪の毛の女性が、

蓮を産んでくれたお母さんだった。


「ねぇ、遠藤さん。フィナンシェいる?」

「あ……どれ? 美味しそうね」

「でしょ? プロが作ってくれたんだもの」


明るい声で看護師達と語る蓮のお母さんを見ながら、

私の存在が、この笑顔を曇らせるのではないかと思うと、心がチクッと痛んだ。


大好きな蓮をこの世に送り出してくれたお母さんを、私は自分の記憶にとどめようと、

目を向けた。蓮は身長が180くらいあるのに、お母さんは私よりも小さい。

それでも笑うと目尻が下がるところなどは蓮に似ていた。


「すぐ病室に戻ってくださいね」

「はい、はい……」


顔を見られてはまずいと思い、私が慌てて後ろを向くと、その動きを予想していなかった、

小さな子供とぶつかった。タイルの床に両手をついて倒れ、歪んだ顔から、涙がこぼれる。


「あ……ごめんね。大丈夫?」

「うわーん……」


私はその女の子の前にひざまずき、バッグから取り出したハンカチでその涙をぬぐう。

それでも災難に襲われた子供の気持ちはすぐに修正されず、泣き声は止まらない。

すぐに状況に気付いた看護師が、かけより彼女を抱きあげた。


「大丈夫よ、ともちゃん。こんなことくらいで泣いていたら、幼稚園の運動会頑張れないぞ」

「……うっく」


かわいい涙がこぼれ落ちる前に、もう一度ハンカチを差し出すと、

横から蓮のお母さんが顔を出し、ともちゃんと呼ばれた女の子に、フィナンシェを出した。

リボンのついたかわいいお菓子を受け取ったともちゃんは、すぐに泣き止み、笑みを浮かべる。


「あ……偉い、偉い。泣き止んだ。ほら、もうひとつあげるから、ママと一緒に食べておいで」

「うん……」


ともちゃんは私達に笑顔で手を振り、ママが待つ病室へまたちょこちょこと走り始めた。

顔を見られないようにと思っていた蓮のお母さんに、よりにもよって助けられ、

逃げようのない状況になる。


「すみませんでした。ご迷惑をおかけして」

「いいのよ、ビックリしただけ。子供なんてね、お菓子があればすぐにご機嫌になるわ。
ほら、あなたにもあげる」


蓮のお母さんは、私の手の上にもフィナンシェを2つ置き、検温があるからと、

にこやかな笑顔のまま、病室へ消えた。





「母さんに会ったの?」

「うん、今日ね、東城総合病院に請求書を持って行く用事があって、
で、一目だけでも見られたらいいのにと……つい……」


あまりにも恥ずかしい鉢合わせを、その日の夜、蓮に報告すると、予想通り笑われた。

こっちは真剣に悩んでいるのに、笑うなんてと思ったが、冷静に考えたら、

確かに笑うことかも知れない。


「泣いていた子供を泣き止ましてもらって、さらに、フィナンシェまでいただいちゃったの。
もう、恥ずかしかった……」


家に戻ってから、カゴに入れてあったフィナンシェを指さすと、

蓮は、笑った顔のまま手に取った。


「あ……」

「何? 何か変?」

「いや……そうじゃない」


それまでの笑顔が急に消え、気になった私は、どうしたのかともう一度問いかけたが、

蓮はすぐに首を振ると、開いたフィナンシェを一口食べる。


「心臓が悪いなんて言ったから、敦子はもっとおとなしい静かな人を想像してたんだろ。
それは残念だった」

「そういうわけじゃないけど」


蓮が一瞬見せた表情が気になったが、お湯が沸騰し、やかんの蓋がカタカタと揺れ、

すぐに止める。蓮はピアノの前に座り、軽く練習曲を弾き出した。


「あれ? 革命じゃないの?」

「いつもいつもそれじゃ、嫌になるよ。ここへ来て、少しずつ触るからかな、
昔習った曲を、思い出すというのか……」


蓮のピアノをバックに、私は献立をテーブルに移動させる。

菊川先生の教えてくれた通り、少しダシを利かせて、煮物を作ってみた。


「母さんは本来、明るくておしゃべりな人なんだ。暇さえあれば友達と電話をしているし、
人を呼んで食事会を開いたり、結構活動的なんだよ」

「うん……そういう雰囲気があった」


いつも文句を言われたことなどないけれど、味の変化に気付いてくれるだろうか。

私のそんな緊張に気付かない蓮は、ピアノから離れ、

なにやら自分のバッグから白い封筒を取り出した。


「なぁ、敦子。食事の前に、今日は報告がある」

「……何?」

「本日無事、内定をもらいました!」


私でも名前を知っている、大手の飲料メーカー『ふたば』からの通知で、蓮が広げた紙を、

両手で受け取り、気持ちを落ち着かせるように、大きく息を吐く。


「よかった……よかったね、蓮」

「うん、やっと歩いていく道が出来てきた。敦子の不安も、やっとひとつだけ解消だ」

「……私は……」


蓮なら大丈夫だと自信はあったが、こうして形になってくれると、

本当はとても不安だったのだと、あらためて思う。私との出会いから、

蓮には、いいことなど何もなかったような気がしていたが、そんな想いもこの紙の重さに、

少しだけ流された。


「教えてくれたら、美味しいものでも食べに行ったのに」

「いいんだよ、敦子と二人……ここで」


決して豪華とは言えない食卓だけど、私の想いだけは、菊川先生の力を借りて、

十分すぎるくらい入れたはずだ。


「うん……うまい!」

「本当?」


その日の食事の時間はゆっくりで、蓮の報告が笑い声とともに響き、

その日の二人の時間はさらにゆっくりで、私の吐息がいつもより長く吐き出された。





内緒の彼女修行も順調に進み、私の料理のレパートリーは、少しずつ増えた。

蓮のお母さんに病院で会った日から、2週間後、一緒の教室で料理を習っている

美容師の茂木さんから、日曜日、菊川先生の自宅へ行く話を聞いた。


菊川先生は、週末ご近所の方を招き、お菓子教室も開いている。

もうじき結婚する茂木さんの話を聞き、それはぜひ、お祝いしたいと、

手作りのケーキを焼いてくれることになったのだ。

同じく料理教室の生徒である、トリマーの長崎さんと私も、茂木さんの話に乗る形で、

先生の自宅へ手土産を持ち、向かうことになった。


高級住宅地として知られるその場所は、駅から10分ほど歩くが、

少し小高い丘から見える景色は、自然と街が一体化された美しいものだった。


「いらっしゃい、ねぇ、左の洋間へどうぞ」

「はい……」

「おじゃまします」


私達は玄関からあがり、すぐ左の部屋へ通された。

そこには素敵なアンティークもののソファーがあり、近くにはテーブルも置かれている。


「これ、先生のお口にあうかどうかわからないんですけど、お菓子に合うかと思って。
フレーバーティーなんです」

「あらいやだ、そんなことしなくていいのよ。今日は女性の集まり、
ちょっとした世間話でもしようと招待したのに」


今の時代だからなのか、料理教室には男性も通ってきているため、

たまには女性だけで遠慮なしにと、菊川先生は笑顔を見せた。


「うわぁ、美味しそう」


私たちの到着時間を予測して焼きあがったシフォンケーキからは、生地に混ぜ込まれた、

メイプルシロップの甘い香りが漂い始め、それにあわせる生クリームを、先生は泡立て始めた。


「あ、先生、私がやります」

「いいわよ、あなたたちはテーブルセッティングしてくれる?」


私と長崎さんはテーブルの上にそれぞれの皿を乗せ、フォークやカップを、

先生の指示通り置いていく。


「あ……先生、これ、かわいいですね、フィナンシェでしょ」

「そうなのよ、リボンの結び方がちょっとおしゃれでしょ」


そう言われて私がテーブルの上を見ると、あの日、蓮のお母さんが手渡してくれたものと

同じものが置かれていた。



『でしょ? プロが作ってくれたんだもの』



確かにあの日、蓮のお母さんは、プロが作ってくれたのだと、このフィナンシェを見て、

そう言った。さらにその日の夜、蓮がこのフィナンシェを見て、表情を変えたことを思い出す。


もしかしたら、菊川先生は、蓮のことを知っているのかもしれない。

そう私が小さな疑問を思い浮かべた時、インターフォンの音が、部屋に響いた。


「あれ? やだ……もしかしたら来ちゃったのかしら」

「どなたかお客様ですか?」


フレーバーティーを準備する茂木さんは、なにげなく菊川先生に問いかける。

気にしないで欲しいと手を振りながら、先生はボタンを押し、外を確かめた。


「はい……」

「とみちゃん、ごめん。バイトがキャンセルになったんだ」


その聞き覚えのある声に、私の鼓動は一気に早まった。

あの声は間違いなく蓮で、このままここへ入ってくれば、料理教室通いのことが知られてしまう。


しかし……。


それよりも、菊川先生と蓮の知らなかったつながりの方が、私の気持ちを占拠し、

なぜ蓮がここへ来たのか、二人はどういった知り合いなのか、そのことだけを知りたくなった。





17 過去を知る人 へ……




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コメント

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こんばん・オッハー!!e-320

敦子さんはお料理の腕も上がり、蓮君は内定貰って
二人の仲も順調で今ん所、ハッピー!でよかった。(嵐の前のなんとやらか?)

蓮君のお母さんて気さくで楽しそうな人だけど
二人の事のこと知ったら豹変するのかな。

敦子さんと蓮君母のニアミスは後になんかある?
と思ってたら、料理教室の菊川先生
蓮君の知り合いみたいですね。
敦子さんだけじゃない、私も知りたい!
どういう知り合い?敦子さん居るって知ってて来たの?
笑顔の消えた理由って?

事態は風雲急を告げる・・・告げない?
次回も楽しみです。


      では、また・・・。e-463

連の母

明るく屈託がにように見える。そこに至るまでどれ程の葛藤があったのだろう?

だけど何か違うものを感じてしまうのは私の悪い癖?

結んだリボンに反応する連、何か気づいたのか?

と、思ったら『とみちゃん』???

どんな知り合いなんだろう?

どんどん推理小説化してないかい?

これも新しい試みかな?

って今日は????ばっかだよプー!(*≧m≦)=3

菊川先生

mamanさん、こんばんは!


>蓮君のお母さんて気さくで楽しそうな人だけど
 二人の事のこと知ったら豹変するのかな。

豹変かどうかはわからないけれど、よく思わないことは
確かですよね。出来れば会いたくない、女性でしょう。


>料理教室の菊川先生
 蓮君の知り合いみたいですね。

はい、知り合いみたいですね(笑)

どんな知り合いなのか、菊川先生の登場が、
真実を突き止めるきっかけになるのか……などは、次回までお待ちを!!

楽しみにしていただけて、嬉しいです。
こちらこそ、いつもありがとう。

蓮の母親

yonyonさん、こんばんは!


>明るく屈託がにように見える。
 そこに至るまでどれ程の葛藤があったのだろう?

そうなんですよ、だからこそ、敦子もチクリと、胸が痛いのです。
出来たら思い出させたくはないことだからね。


>どんどん推理小説化してないかい?
 これも新しい試みかな?

推理小説……ほど、巧みに出来てないけどね。
でも、新しい試みってことは、思っていたかもしれないです。
こんなふうにしてみたい……とか、あれこれ考えるのが
楽しいんだよ!

蓮ととみちゃん

yokanさん、こんばんは!


>あ~、きになる~、蓮くんと菊川先生の関係
 「とみちゃん」って呼んでる。
 敦子さんには知られたくない関係か(ーー;)

あはは……どんな関係だと思います??
まぁ、ナイショで来ているってところは、怪しいよね(笑)

蓮の母親のイメージ、違ってました?
そうか、暗いと思われてたか……
明るく見えていても、心の中は、わからないけどね。


さて、現金主義、私もかつてはそうでした。
でもね、現金よりカードの方が、得をすることが多くて……
でも、後から『支払い』がくるのも、
忘れちゃいそうだよね。