26 君の香り 【26-4】

「ジャグジー?」

「そう。今はお湯がないから出来ないけれど、宣伝とかで見たことあるでしょう」

「うん、ある」


そこまでどこかうつむき加減だった男の子は、

天井近くについている突っ張り棒のようなものを指さした。


「あれは?」

「あれは物干し。この浴槽は乾燥機能があるから。雨が降って、
洗濯物が外に干せないときには、ここに……」

「へぇ……」


心はそれからもキッチンに戻り、収納が多いことを説明し、

集合ポストの場所には、荷物を預かる『宅配ロッカー』が備わっていることを話す。

どんなに小さな情報でも、新しい生活に少しでも前向きな気持ちが出るようにと、

心は明るい声で案内を続けた。


「共働きされる方が多いので、これは便利だと思います。
宅配業者に玄関前まで来て欲しくないという方も、今は結構いらっしゃいますし……」

「そうね、休みの日とか、出て行くのも面倒な時あるしね」

「はい」


男の子が物件に興味を持ったことで、大人二人もさらに前向きになってくれる。

心が、3人を連れて『有森不動産』に戻ってきた時、

『あれがいいよ』と言ったのは、その健太君だった。





「決めましたね、桜沢さん」

「うん……」


心は、健太君が途中から新しい生活に前向きな感情を出していたことに、

大人の2人が本当に嬉しそうな顔をしていたのが、印象に残った。

世の中には、自分以外にもたくさんの人がいて、何かにつまずいたりしながらも、

また立ち上がり、そこから新しい幸せを求めて頑張ろうとしていることにも、

あらためて気づかされる。

自分がこうして週末に仕事をしているため、温と休みが重ならないことが、

すごく気になっていた心だったが、どんな小さなことでも前向きに捉え、

努力していけばいいのではないかと、案内がうまくいったことで、

思うようになっていた。





「ん?」

「お休みが違うから、今は一緒に出かけられないけれど、料理とか作りながら、
これからも温君の話をたくさん聞いてあげようって、
それが今の私の出来ることだと、今日はそう思いながら仕事をしていたの」

「うん……」

「あぁ、こういうように、頑張ろうとしている人達が、ここにもいるんだって、
すごく励まされたというか……」


心は、西森家に向かい、壮太郎と二人で夕食を食べ始めた。

壮太郎は、心が休みのことで悩んでいたのはわかっていたため、

気持ちが少しだけ切り替わったことにほっとする。


「家庭の事情はそれぞれだよ。ホームドラマみたいに、基本形ばかりとはいかない。
うちの妹の旦那は、ホテルマンなんだ。だから基本的にこういった夏休みとか、
週末は忙しい。だから、章斗君は平日に学校を休んで、
1年生の頃は出かけていたらしいし」

「学校を?」

「そう。今は、小学校の先生も、親の仕事が多様化していることを知っているから、
『家族で出かけます』というと、お休みを了解するらしいよ」


壮太郎は『宅見建設』の物件を扱う業者の社員も、

同じようなことを話していたと説明する。


「こうならないからって悩むことより、僕たちが無理をしなくて済む形を
どう作ろうかって、悩んだ方がいいはずだ」

「……うん」


心はお茶を飲みながら、音のしない静かな部屋を見る。


「温君がいないと、静かね」

「まぁ、そうだな。1年半くらい前までは、こんな静かな生活が普通だったのに、
バタバタ音がしないと、確かに寂しい気がする」


壮太郎は『でも、たまにはいいよ』と笑った。


「風呂入れたかなとか、明日の準備をしたかななんて気にせずに、
ゆっくり出来ることは幸せだ」

「……なんだか、正反対なことを言っている気がするけど」

「そうかな」


壮太郎はお茶を飲み干すと、『風呂に入ってくる』と言い立ち上がる。

心は二人の湯飲みを流しに入れ、スポンジを手に取った。

すると、壮太郎の腕が、後ろから心を包み込む。

心の動きが止まり、壮太郎の息づかいが耳に届く。


「あの日……」


壮太郎は、以前、酔って帰ってきた日のことを話しだした。


「今の仕事のリーダー延岡さんから、状況に甘えるなっていうようなことを言われて、
正直、気持ちが落ち込んでいた。そのまま帰れなくて、仲間と飲んで、
酔って君の部屋に温を迎えに行っただろ」

「うん……」

「あの日、こんなことならって……後ろ向きな台詞を言いかけた時、
心が抱きしめてくれた」


心は『こんなことなら』の後に、出るかもしれない言葉を恐れ、

壮太郎の思考回路を止めるつもりで抱きしめた。

温に対しての不服や、自分の運命を恨むような言葉は、聞きたくなかったからだ。


「だって、聞きたくなかったの……辛くなりそうで」

「うん……」


壮太郎は『わかっている……』と話す。


「その時……心の香りを感じた。女の人の甘い……それでいて温かい香り」


壮太郎は心の耳元に、唇を寄せていく。

壮太郎の声と届く吐息に、心の鼓動も速まっていく。


「それからずっと……あの香りを求めている」


壮太郎の言葉に、心はしっかりと頷く。


「うん……」


壮太郎は心のうなじにキスを残すと、抱きしめていた手を離す。

心は湯飲みを洗い終えると、少し熱を持ったような気がする耳元にそっと触れた。


【26-5】



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