32 新たな火種 【32-1】

32 新たな火種



このアパートだけで私の部屋以外に3つの部屋がある。

声も聞こえるし、カーテンを開けたら姿も見えてしまうだろう。

そうだ、ここで話し込んでいるのはまずい。


「平野さん、何度か来てくれましたか、ここに」

「……うん」

「そうですか、それなら……少し車で走りませんか」


私は『お願いします』と頭を下げ、一度冷静に部屋まで戻ると鍵を閉めた。

部屋に入ってもらうのは構わないけれど、この車存在感がありすぎる。

『不審車』として通報でもされてしまうと、色々と面倒になりそうだから。


「すみません」


あらためて車まで戻ると、運転席に座っていた平野さんの表情は、

何か重たく見える。


「あの……」

「誰か来るのか……」

「エ……」

「部屋で話すのは、無理だってことだろ」


平野さんの目が、私を一瞬見た後、すぐにそらされた。

いつものように挑戦的な強い視線はどこにもなくて。

なんだか小さな子供が少し拗ねたような……


「違います。全然違います。平野さんの車が今、『不審車』だからです」

「不審車?」

「はい、ほら、出発しましょう。ちゃんと説明しますから」


平野さんの話の内容が理解仕切れていないけれど、でも、私の方が『わかっている』。

そう、そんな気がしてしまう。

まだ納得し切れていない様子の平野さんに、もう一度『出発です』と声をかけ、

アパートの前を離れていく。

10分ほど走った場所にある、公園の駐車場前に車を止めた。

昼間なら人通りが多いけれど、夜はあまり人が歩かない場所。


「すみません、移動してもらって。実は平野さんの車が、
この数日、アパートの前に止まっているのを気にして、
ご近所の人が不審車だと思っているものですから」

「これが、不審車だと?」

「そうです。見慣れない車が止まっていたら、誰でも警戒しますよ。
特にこのあたりはそういう路上駐車もあまりないし……」


私自身、引っ越してきたからそういえばそういう車を見た記憶がないくらい。


「ですから、部屋に上がってもらっている時に、通報されても困るなと思って。
平野さん、ここに何度か、様子を見に来てくれたということですよね」


近所の人の頭に残るくらい、見かけたということは、

それだけあの場所に来てくれていたということで。


「お前があの日、『どこに行っても……』って、そう言ったからさ」

「あの日?」

「『STEM』に来ただろう、俺のところに」

「あぁ……」


平野さんに思ったことが言いたくて、『STEM』まで行った日のことだ。


「どこに行ってもなんて、私、言ったかな」

「言った。だからもしかしたら広報も辞めるのかとか、色々俺は考えて……」


平野さんは大きく息を吐く。

ため息のように聞こえた呼吸。


「バレーの現役を終えたら、やりたいことがあったから、
だから、多少、振り切れていない思いがあったとしても、
スタートを切ればどうにかなると、そう考えてチームを去った。
確かに仕事はうまくいっている。周りの協力もあるし、組織の力もあるし。
だから、そのまま……と思うのに、ふと気づくと、『バーズ』に行く用事を探していて」


平野さんの目が、私を見る。

怖いくらいにまっすぐに……


「市川から話があると言われたから、わざわざ工場に向かったし、
関係ない『さざなみ杯』の日に、待ち合わせてみたり……」


みち君と朋花の結納と顔合わせがあって有給を取ったから、

事務所に来た平野さんに会えなかった日。

『さざなみ杯』は、私だけ会えなかったと思い、悲しくなった日。


「かっこ悪いだろ、自分の言葉に、自分が縛られるなんて。
でも、お前の名前を聞く度、頑張っていると話を聞く度、時間が経つことが怖くなった。
このままどんどん離れていくだけだ、それでいいのか……って」


『平野さんが』、『平野が……』と私が名前を聞く度、距離を感じたのと同じ思いを、

平野さんもしてくれていた。


「だから合宿に行って、正直に話そうとしたらあんな事故に遭った。
怪我をしたのが左手でしかも手首だ。選手時代も怪我はあったけど、
骨折はなかったから。そのとき、初めて、
あのトスを上げることはもう無理かもしれないと、気持ちが弱気になった。
もう、お前が見たいと言っていた『雲に乗るトス』をあげることは無理だと……
そう思った。お見舞いに来てくれた松尾さんには、それが伝わったのだと思う。
こんな感情になるのならと、後悔し始めていた時、お前が飛び込んで来た」


『自分のバレーが終わった』という発言を聞き、

私はいてもたってもいられなくて、平野さんに会いにいった。


「まさか来てくれるとは思わなかったけど、でも、話をしながら、
この時間を無くしたくないと心から思った。今まで生きてきて
『バレーボール』以外に失いたくないと思ったのは、初めてだ」



自分の心臓が、音を立てていると気づくことなんて、それほどないことだと思う。

それほど予想外なことが、今、私の目の前で起きている。

私と平野さんの思いが、こんな風に重なっていくなんて。


「俺だけなのかって、平野さん言いましたよね、さっき。
この1年、もやもやした気持ちでいたのは自分だけなのかって……」


やっと言える……


「うん」

「そんなこと、あるわけないでしょう。私は精一杯、一生懸命、
理解した……つもりになっていました」


そう、理解して、納得した……フリをしていた。


「あの日、『雲に乗るトス』を最後に見せてもらった時、
回転がついたことはわかりました。わざとつけたとは思いませんでしたけど、
確かに、最初に見たものと違うなと。でも……」


でも……


「言えるわけないです、違いますよなんて。平野さんがこれから、
新しい道を選んで、迷いなく進んで欲しいと、
一生懸命に自分の気持ちを封印しているのに、
それなのに、違います、納得出来ませんなんて言えるわけない」


そう、こっちの気持ちなんて、全然わかっていない。

どんな状況になったって、たとえ苦しい日々がそこにあったとしても、

あなたがそこで生きていこうとしているのなら、

私も一緒に進みたいと、願っていたことなど。


「広報として失格だと言われてから1年、ずっと、頑張ってきました。
何が一番、平野さんのためになるのかって……。付いてこないで欲しいと、
あなたの決断がそこにあったから、私は……」


自分の気持ちに必死に封をして……


「『雲に乗るトス』なんか、あげられなくたっていいんです。
そんなこと、どうだっていいんです」


あなたを好きになるきっかけだったことは間違いないけれど、

それがないからといって、平野さんへの気持ちは、何も変わらないのに……


「もう……電話だってなんだってよかったんです。手紙なんか入れて、
こんな面倒なことをして」


思ったのなら、すぐに行動してくれたらよかったのに。


「面倒って……俺は、自分が言ったことだったし、急に正反対のことを言い出すのはと、
それなりに考えたんだぞ」


平野さんは『手紙なんてしばらく書いたこともなくて、大変だったのに……』とつぶやき、

顔をそらしてしまう。

少しのことで拗ねたり、こうして自信のない顔をしたり、

初めて見る平野さんが、ここにいて。

そういえば協会のアンケート、平野さん、自分で書くのが面倒くさいと言って、

本田さんに書かせていたっけ。


「いつもの平野さんみたいに、強気で言えばいいんです」

「……ん?」

「あなたは、何も間違っていませんから」


『どうしよう』とか『不安』とか、そんなものいらない。

私の気持ちはずっと、変わっていない。


「私に、正直に言ってください」


諦めたくても諦められず、願っていたことはたった一つだけで……



「……そばにいてくれ」



あなたがそう望むのなら……



「はい」



私はこうして寄り添っていく。


互いに少しずつ顔を近づけ、気持ちを送り出すためのキス。

一度離れた唇は、また近づき触れていく。

『あなたが好きです』の気持ちが、今、初めて伝わった。


【32-2】



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