7 腰を痛めそうになる日 【7-3】



「朝、9時半から昼の12時までは入浴が出来ないことになっているので、
この時間に掃除は済ませます」

「はい」


9時半から12時。

確かに、お客様がチェックアウトして、

次のお客様がチェックインされるまでの時間をうまく使わないと、迷惑をかけてしまう。


「天然の温泉であっても清掃は毎日しないとね、
温泉の成分でぬめりが出たりするし、お客様が滑ってしまっては大変だから」

「はい」

「それでは、きっちりこすりましょう」

「はい」


他のみなさんもしているように、デッキブラシを持ち、とにかくしっかりとこする。

この前に全体を流す作業があったが、それはすでに私が到着した時には終わっていて。


「そうそう……」

「はい」


腰を低くして、力を入れてこする。

洗剤が中に入らないように、ブラシの方向も重要。

私に説明をしてくれる五代さん、うちの母より年配に見えるけれどきつくないのかな。

これ、結構、力いるけれど。



『坪倉さん……』

『何か問題でも』



あぁ……頭の中に、あの冷たい台詞たちがこびりついてしまった。

こんなふうに呼ばれるのなら、最初から坪倉さんの方がよかったな。

『菜生さん……』なんて、壁を軽く飛び越えてくるから、私も気持ちが……


「坪倉さん、全体的にこすれたら、今度は柔らかいこちらのスポンジで、
桶や椅子をしっかり洗うから」

「エ……あ、はい」

「大丈夫?」

「はい、大丈夫です」


周りを見ても、結構年齢を重ねた人ばかり。

そうでしょう、こういう場所の掃除って、そういう仕事だよね。

『年金をもらいながら』とかさ。

26歳の女性が、自ら選ぶ場所じゃないもの。


「坪倉さん、椅子は特に側面をお願いしますね。
ここに垢が残ると、変色してくるから」

「……はい」


椅子だけで15くらいあるし、桶はその倍くらいはある。

積み重なっているものも、一つずつおろして洗うのか……


「坪倉さんは、おいくつなの?」

「私は26です」

「そう……それなら私の娘より、もう少し若いのね」


五代さんは、慣れた手つきで、桶をどんどん洗っていく。

他の人達は、備え付けのサウナの方へ掃除に向かった。


「五代さんは、この仕事を何年されているのですか」

「『龍海旅館』ではそろそろ1年かしら。
私みたいな年寄りを雇ってくれて、本当にありがたいのよ」


五代さんは、この後、シャンプーやリンスの補充、石鹸の交換など、

浴室内での清掃順番を、しっかり教えてくれる。

しかし、今日はそれを他の人に任せ、脱衣所の方へ移動した。


「さぁ、どんどんやらないと。脱衣所も大変だからね」

「はい」


勤務初日。

予想外の展開だったので、気持ちと頭がバラバラに動いていて、

何をするのか予測もつかないまま、受け入れているだけ。

だからなのか、たいした時間も経っていないのに、疲れを感じてしまう。

かといって、投げ出すわけにもいかないし。


「坪倉さん、掃除機、頼んでもいいかしら」

「はい」


よかった、掃除機ならデッキブラシよりは力がいらない。

私はゴザのある場所を隅から丁寧に掃除機をかけ、汚れを取っていく。

その間に、五代さんは、洗面台をこすって磨いてくれて。

なにげなく時計を見ると、いつの間にか結構な時間が経っていた。


「坪倉さん、掃除機上手ね。この前来た人は、
目に逆らってあっちこっちの向きに掃除機をかけてしまうから、
それを教えるところからだったけど……」

「この前……」

「そうよ。少し前に募集をかけて、入ってきた人もいたけれど、
確か10人入って、すでに半分も残っていないかな。みなさん、
旅館の仕事は思っていたよりも大変だと思うみたい」


この間の面接で入った人は、半分以下しか残っていないのか。

この間の面接から何日経った?


「私の家は畳屋なので、一応、和室の掃除に関しては慣れてます。
畳も目に沿って掃除しないといけませんし」

「あら、坪倉さんって『坪倉畳店』のお嬢さん?」

「うちをご存じですか」

「えぇ……商店街を抜けて道の駅の方へ行く4丁目のアパートに住んでいるので、
部屋を借りる時に、畳を取り替えに来ていたところを、内見させてもらって……」

「あぁ、あのあたりはいくつかありますよね、アパート」


古めのアパートだと、まだまだ和室が中心。

毎回借主が変わる度に、畳を綺麗にすることはないが、

五代さんはちょうどそのタイミングだったのだろう。


「ちょうど遊びに来ていた孫が、畳屋さんのお仕事だっていって、
邪魔なのに見させてもらって」

「そうですか」


掃除機を終了し、コードをクルクル巻き取っていく。

この最後にシュルっと少し速さを増して吸い込まれる瞬間、結構好き。


「お孫さん、おいくつですか」

「今年で6歳なの」

「うわぁ……かわいい盛りですね」


五代さんは小さく頷くと、タオルで水滴を綺麗に取っていく。


「そうなのよね、今が一番おてんばさんなはずだけど……」


何か気に障るような言い方をしただろうか、

五代さんの明るいトーンが、そこで下がってしまった。


【7-4】



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