8 過去が押し寄せる日 【8-1】

8 過去が押し寄せる日



「だから今、言っただろう。鬼ちゃんには結婚の意思があった。
気持ちも決めて、プロポーズ用の指輪も買って、
二人で暮らしていたアパートに戻ったら……」


戻ったら……


「奥さんになるはずの七海さんは、家を出て行ってしまい、そこにはいなかった」

「ななみ?」

「あぁ……この土地と同じ『七海』と書いてななみさん」


鬼ちゃんと七海さんは、鬼ちゃんが大学時代にバイトをしていた居酒屋で知り合った。

通信制の高校を卒業して働いていた七海さんは、『大学』に行っていた鬼ちゃんを、

すごくうらやましがったという。


「七海さんは7人兄妹の一番下で、家庭環境は、
とても大学に行けるような状況ではなかったそうだ。
鬼ちゃんは卒業したらいい企業に勤めて、苦労してきた七海さんを幸せにしようと、
頑張ったらしい」

「うん……」

「でも鬼ちゃんは、真面目な割に人付き合いがうまくなくて、
就職しても同僚とぶつかったり、上司に厳しく言われたりすることが多くあった。
ここは『自分の居場所ではない』と、すぐに転職してしまって」



『君に頼んだ覚えはない……』



思い出してしまった。あの上司の冷たい言い方と、

私を指示するよと言いながら、いざとなったら視線をそらした同僚のこと。


「そんなことが何度かあったらしい。でも、鬼ちゃんは次こそと前向きだった。
決して、仕事をするのが嫌でサボるような人間ではないからな。
でも、七海さんに、そういうサラリーマンではなくて、
職人のようにコツコツやれるようなものを選んだ方がいのではと
アドバイスをされても、鬼ちゃんは『ホワイトカラー』にこだわって」


『ホワイトカラー』か、大学を出たのだから、

スーツを着て仕事をと思ったのだろうな、鬼ちゃん。


「次の就職が決まって、半年辞めずに頑張れていた。
これならと思った鬼ちゃんは気持ちを決めて、
プロポーズをするつもりだったけれど、さっき言ったように、
七海さんは一緒に住んでいた家を出て行ってしまった」


どうして出て行ってしまったのだろう。

転職をしていると言っても、真面目に働こうとしていたわけだし。


「他の人を好きになった……とかなの?」


鬼ちゃんとのすれ違いで、七海さんの気持ちも冷めてしまったということだろうか。


「鬼ちゃんも最初はそう思ったそうだ。親しかった人に事情を話して、
他に付き合っている男の人がいたのか聞いてみたけれど、そんなことはなかった」

「なら、どうして……」

「七海さんが出て行ってしまってから半年後、
病院に看護師として働いていた七海さんの同級生から、アパートに手紙が来たらしい」


七海さんの住所が鬼ちゃんのアパートになっていたため、手紙が届いた。

本当なら開封してはいけないものだけれど、病院からだったため、

鬼ちゃんは七海さんあての手紙を開封する。

そこで、七海さんが『初期の子宮ガン』を患っていたこと、

検査にこないため、スタッフも心配していることなど、初めて鬼ちゃんは知ったという。


「七海さんが姿を消してしまったのは、鬼ちゃんに愛想をつかしたわけではなくて、
病気になった自分を、将来の伴侶にしようとしていることがわかったから、
身を引いたのだろうと……」


鬼ちゃんのために、身を引いたということ……


「私たちが鬼ちゃんから聞いて本当の事情を知った時は、秋から冬に向かう時期で、
お前は高校3年生だった。大学は東京に行きたいといつも口にして、
仕事も東京でと、とにかく前向きに動いていただろう」


観光客の気分に振り回されるようなこの街が嫌だと思い、

何でも自分で選ぶことが出来る東京に行きたいと、願っていた頃。

確かに、鬼ちゃんにも『東京』に行くからと宣言し、身勝手な夢まで語っていた。


「菜生はあと数ヶ月もしたら東京に出ていくし、病気だの、行方不明だの、
暗い話は聞かせたくないと鬼ちゃんに頼まれてな、お前には言わないままでいた」



『鬼ちゃん、東京の大学に行ったらさ……』

『一人暮らしは、どのあたりがいいかな……』



「人生で一番楽しい時期を迎えるお前に対しての、鬼ちゃんの強がりと、
それから優しさだ」



『菜生……どうした』

『何ふくれっ面しているんだよ、菜生』

『お前なぁ、もう少し冷静に考えろ』



そうか……そうだったのか。



いつも、私は鬼ちゃんに救われてきた。

学校で嫌なことがあると、玄関に入る前にここへ来て愚痴を言った。

嬉しいことが起きても、最初に報告するのは、いつも鬼ちゃんで。

『東京』から逃げてきた時も、まず、鬼ちゃんの顔を見ようと思った。

振られた、頭にきたと語って、何かを言ってもらおうとした。


そう、今日も……

自分が思っていたような仕事ではなく、腹が立ったと、

芹沢さんの態度が急変したことをどう思うのかなど、『話す気持ち』だけで、

鬼ちゃんを探した。


鬼ちゃんが奥さんと離れて生活していることを、不思議に思いながらも、

真剣に話を聞こうとしたことは1度もないのに。


「お前が東京に行ってからも、鬼ちゃんは2年くらい七海さんを探していた。
でも、勤めていたところに行っても、消息はわからないし、
知りあいを通じて実家を知って、訪ねてみても、
ご両親とは全然連絡を取っていないと言われて、八方塞がりでな」

「……うん」

「病気が理由かと思っていたけれど、
もしかしたら本当に愛想を尽かされたのかもしれないと言って、
鬼ちゃんは七海さんを探すことを諦めた。今回は、実家のお父さんが入院されて、
そのために戻ったんだ。ただ、お前は昔の話を信じたままだっただろ、
美味しいお店を紹介されたりして、鬼ちゃんも、いささか、
本当のことを話した方がいいと思ったみたいだ」

「あ……うん……」


『わかった』という一言だけを父に言うだけで、精一杯だった。


小さく頷きながら工場を出て、荷物を持って階段を上がる。

『お帰り』と言ってくれた母の顔も見ないまま、部屋のふすまを閉めた。


「はぁ……」


洋服ダンスの横に張り付くようになり、体を小さくする。

膝を抱えて、ただ畳の縁を見る。

見ていても何も変わらないけれど、何かに集中していないと、泣きそうな気がして。


鬼ちゃんがここに来たのは26歳、今の私と一緒。

病気を抱えた七海さんが、自分に相談してくれることもなく消えてしまったことを、

きっと心の傷として抱えてきたのだろう。

サラリーマンよりも、職人の方がいいのではないかと言われたから、

ここへ来たのだろうか。



愛する人と同じ『七海』の文字を持つ、この場所に……



そういえば、理子と洋平の話をした後、鬼ちゃんに言われたな。

理子が抱えている思いを知ろうとするのなら、

その重たいものを一緒に背負えるだけの覚悟があるのかと。

興味本位ではなく、一緒に考え、泣き、心に傷をつけていけるのかと……



七海さんに渡すつもりだった結婚指輪。その自分の分を、今も鬼ちゃんはつけている。

あえてつけているのは、諦めたと言いながらも、

まだ心の中に七海さんがいるということだろうか。



10年の月日。

鬼ちゃんは、これからもその『空白の時』を、重ねていくつもりなのかな。



報われることがないかもしれない時が、積み重なっていくのは、辛すぎるのに。



私は立ち上がり、そこから着替えをして、下に降りていく。

母と一緒にキッチンに立ち、食事の支度を手伝った。


【8-2】



コメント、拍手、ランクポチなど、みなさんの参加をお待ちしてます。 (。-_-)ノ☆・゚::゚ヨロシク♪

コメント

非公開コメント