8 過去が押し寄せる日 【8-5】



「菜生、あいつと話はついた。これからは本当に一緒にいられる」


『あいつ』? それはつまり奥さんと話し……ついたってこと?

つい振り向いてしまった。

でも、剛の顔、まぁ、それなりに真剣だと思うけど。


「本当に俺が悪かったと思う。菜生とのことを真剣に考えていこうと思っていたのに、
あいつと、話し合いがしっかり出来ていなくて。でも、本当にさ」

「声が大きい。他の人達が何かと思うでしょう」


何をしに来たのか知らないが、ここは『龍海旅館』の入り口近くの場所。

掃除の人達だって、まだ帰っていない人もいるから自転車置き場に来るし、

事務局の人達にも、私の顔は知られている。



芹沢さんでも出てきたらどうするのよ。

また、怒られるかもしれないのに。



「なら、泊まる部屋で話そう。今日から1ヶ月、ここにいるからさ」

「……は?」


1ヶ月って、どういうこと。


「『龍海旅館』にしばらくこもって、仕事をしようと思って予約した。
菜生の実家が近いこともわかっていたからさ、色々見たいものもあるし、
じっくり話が出来るように」

「どうしてわざわざ、そんなこと……。剛にはアトリエがあるでしょう。
こんなところに来ないで、そっちで仕事をすればいいのに」

「だから、君に会う目的もあって……」


『樽井剛』年齢は35歳。

『インテリアデザイナー』のなかなかな地位にいる男は、

くだらないことにお金を使える、結構な余裕があるのだと、私はあらためて知る。


「『龍海旅館』は今、仕事場なの。中でウロウロしていたくないから、ダメ」

「なら、どこで話す」

「どうして話をする前提なの? 話すつもりはないけど」

「ご実家に行くのは……」

「ダメ!」


私は、東京で仕事の忙しさに疲れて戻ってきたことになっているのだから、

不倫相手が来ましたなんて、鬼ちゃんがいない今、

家の中のバランスを保てる自信がない。


「家には来ないでね。そんなことをしたら、二度と会わないから」

「なら、どこで……」


話をしたくないのに、どうして話をする方向に流れるのよ。

あぁ、もう、どうしよう。誰かが出てきそう。


「『プロペラ』でいいよ」

「『プロペラ』?」

「そう、昔っからの喫茶店。駅の……あ、ダメだ」


ダメだ、『プロペラ』は、あまりにも知りあいが利用する確率が高い。

母が来なくても、洋平が配達とか、ほら、父のパチンコ仲間とかに会いそうだもの。


「うーん……」


結局、『灯台もと暗し』というのか、剛が泊まる部屋で話すのが、

一番他の人の目がないという結論になり、私は忘れ物を取りに向かうような形で、

旅館の中に戻り、聞いた部屋の名前『波の綾』まで向かい、左右を確認して中に入った。





「どうぞ、まずは飲んで。仕事の後だ、喉が渇いただろう」


湯飲み、前に置かれた。

何この色、もう少しお茶っ葉入れたらいいのに、薄々。


それにしても、東京にいた頃は、お茶なんて入れてくれたことなかったのに、

まぁ、一応、自分が悪いという気持ちはあるみたいだな。


この部屋、芹沢さんが以前話していた、和室の中にベッドタイプだ。

そして、場所が角部屋のため、海までの景色が綺麗に見える。

あの小さなテーブルにコーヒーでも乗せて、夕焼けとか朝焼けとか見たら、

綺麗だろうな。


「菜生……」


現実に戻される声。


「ここに来ることはさ、半年くらい前から決めていた。少し集中して仕事をしたくて。
それに、菜生のふるさとだし。だから、将来のこととかも考えられるしって……。
まさかさぁ、こんなふうになるとは考えていなくて。
それに、仕事まで辞めてしまうとはって……」

「あまりにも誠意のない男に傷つけられて、
何もかもが嫌になったので、私は仕事も辞めました」

「ん?」


ん? じゃない、『樽井剛』お前のことだ。


「……というのはまぁ、あれだけど。実際、トラブルがあってね、仕事で」

「うん」

「部長……って、いいよ、そんなの。剛に語ることではないから」


危ない、危ない、『日本一誠意のない男』に愚痴を言うところだった。

それこそ無駄な時間。


「とにかく、話があるのならさっさとして。私、仕事が終わって帰りたいし」

「そうか、そうだな」


剛は座布団に座り直すと、あらためて頭を下げる。


「妻とは、菜生と出会う前からもうほぼ別居状態だった。
アトリエで生活をしていたのもウソではないし。ただ、マンションの権利を寄こせとか、
それに、仕事でのつながりもあったから、周りに迷惑をかけないように、
互いに絡んだものを外していくのに、こう……時間がかかってさ」


剛の奥さんが何をしている人なのか、私は知らない。

嫌いになれば、確かに『権利』は譲れないだろう。


「菜生が、本当に素直に、色々な話をしてくれるから、既婚者だと言ったら、
避けられてしまうって、俺、その勇気が無くて」


剛は『身勝手で申し訳ない』とまた深々と頭を下げた。

『既婚者』だとしたら避けられるって、そんなことは当然のことだ。

でも、3年の付き合いがある中で、剛が一言でもその話をしてくれていたら、

ショックは受けたかもしれないが、今よりも言葉に重みを感じられた気がする。


「私があのとき部屋から逃げたのは、剛が結婚していたから……というより、
『3年間、ウソをつかれっぱなしだった』ということがショックだったから。
わかっている?」

「うん」

「もし奥さんが来なくて、私が知らないままで離婚したとしたら、
剛、それも隠せればいいと思っていた?」

「いや……だからさ……」


部屋の扉がノックされ、剛は『はい』と答えてしまう。


「あ……やだ、『はい』じゃないでしょう」

「ん?」


ん? って……


「失礼いたします」


あの声、最悪。

流れるようにふすまが開き、

私が逃げ場所を探す前に、芹沢さんが入ってきてしまった。

視線が一瞬だけ、こっちを見た気がする。


「失礼いたします。樽井様、先ほどチェックインの時に、
話されていたパンフレットを揃えてお持ちしました」

「あぁ……ありがとう。早いね」

「いえ……1ヶ月のご滞在中に、ぜひ『七海』の色々なところに、
触れていただきたいと、そう思いまして……」

「確かに景色が素晴らしいなと、入ってきて思いましたよ」

「そうですか。そう言っていただけるとこちらも嬉しいです」


芹沢さんの目は、剛を見ているままで、私の方には戻ってこない。

誰だかわかっていないなんてことは、ないよね普通。


「もし、必要でしたら、割引券などもございますので」

「はい。また……」


そう、ホテルなどでは部屋の案内はしても、それ以降はこちらが呼ばない限り、

スタッフとは顔を合わせない。しかし、旅館はこういった細かいサービスをするのが、

当然のことで。


「ごゆっくりお過ごしください……」


芹沢さんの目が、今度はしっかりと私の方を見た。


【9-1】



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