『龍海旅館』の清掃担当として勤務し始めて2週間。
たまに旅館の廊下を歩く剛に会うと、向こうは軽く手をあげたりしてきたけれど、
『大切なお客様ではない』ため、最低の礼儀として会釈だけしてきた。
そして、今日も1日頑張ると、明日は休み。
力をため込むためには、しっかりと朝ご飯だと思い食べていると、
ウォーキングを終えた鬼ちゃんが、タオルを首にかけて食卓に現れる。
「おはよう……鬼ちゃん」
「おぉ……眠たそうだな、菜生」
「わかる?」
「わかるよ、お前、ご飯とたくわんしか食べていないだろう」
「あれ?」
左手に茶碗、中に入っているご飯の量は半分になっているが、
前に並ぶおかずは、何も減っていない。
減っているのは……確かにたくわんだけ。
「あ、本当だ」
私は箸でかまぼこを取り、口に入れる。
「今、椋さんと話してきた」
「ふーん……」
こちらに戻ってきた頃なら、どういう服だったのか、何を話したのかと、
耳を大きくして聞くところだが、入社してからの冷たい、そっけない態度の繰り返しに、
その名前に反応する頭の部分が、別のところに切り替わった。
「一生懸命仕事をしてくれて、ありがたいってそう言っていたぞ」
「そう……」
それはそうでしょうね。
あなたの持ち上げにすっかり気をよくして、『人手不足』の『清掃担当』として、
26歳、坪倉菜生が入社したわけですし。
そうそう、理子の言う通り、私は惚れっぽいのです。
だから『企てた』旅館の男に、いいように騙されて……
「立場上、厳しい口調でしか接することが出来なくて、指導的な台詞を言った後、
嫌な人間だと、自分で反省しているらしい……」
反省?
「本当は、こういう話をお前に語るのはダメだと思うけどさ、菜生のことだ、
椋さんに冷たい態度を取られて、気持ちが落ち込んでいるのではないかと俺なりに考えて。
だから、こうして約束やぶってやった。その表情見るだけで、すぐにわかるわ」
鬼ちゃんはそう言って立ち上がると、顔を洗いに洗面台に向かう。
「鬼ちゃん、ご飯よそるわよ」
「はい、お願いします」
反省?
厳しい口調を?
そうなの?
何、何、何……本当は気にしてくれているわけ?
反省しているって、今、言っていたよね。
「鬼ちゃん、鬼ちゃん……本当にそう言った?」
「菜生、ほら、歩くのなら茶碗を置きなさい」
興奮気味に右手に箸、左手に茶碗を持ったまま立ち上がった26歳の娘に、
当然とも言える母の怒りの一言。
「あぁ……言ってたぞ。椋さんが切り出したからね、
菜生さん、辞めたいとか言っていませんかって」
『菜生さん』
あぁ、また、悪魔のささやきが。
「いやぁ、もう、仕事から戻って愚痴を散々言ってましたと言おうとしたけれど、
そこは黙ったよ、俺、大人だし」
「愚痴?」
「あぁ……」
「違うよ、鬼ちゃん。嫌だなぁ……もう」
「違う?」
「そう、違うの。愚痴なんて言っていませんよ。
まぁ、ほら、慣れていないから混乱したって話でしょう」
私はこの前工場で語ったのは、愚痴ではなく混乱だとごまかしてみる。
「混乱……」
「そう、それはさぁ、私だってわかっているよ。芹沢さんの立場は。
お客様と関わる場所が多いから、けじめをつけていると思われないとねぇ……」
そうなんだ、芹沢さん、気にしてくれているんだ。
辞めたいと言っていないかって……
やだなぁ、もう、辞めるわけないでしょう。
「ふーん……まぁ、それならいいよ。よし、いただきます」
鬼ちゃんは顔を洗って席に戻ってくると、両手を合わせた。
目玉焼きに醤油をかけ、味付け海苔の袋を開ける。
「あとは?」
「あとってなんだよ」
「だから、あとはどんな話をしたの?」
「あと……」
「そう、あと」
「あとは……あぁ、そうだ。ホームページに流す映像が出来たとか言っていたな。
菜生に見せるって」
「あ、そう」
そうか、あれ、出来たんだ。
それならよかった。
「よし、今日もしっかり仕事をしないと」
「おぉ……行ってこい」
「うん」
私は食器を流しに片付け、先に洗面所に向かう。
歯ブラシを取り、真っ白い歯になるために、歯磨き粉をしっかりつけた。
明日、休みになるから、電動自転車を買いに出かけよう。
母のものを借りるのは、今日で終わり。
私はそう思いながら、坂道を順調に登っていく。
季節は夏に入って、太陽の存在がますます大きくなって。
『七海』が一番輝く季節が、目の前に迫っていた。
『七海 花火大会』まであと1ヶ月、おそらく予約はバッチリ入っているはず。
やる気のエネルギーが、どんどん蓄積されていく気がする。
「あ……おはよう、菜生」
気持ちよく坂道を登っていると、散歩にでも行くのか、降りてくる剛と遭遇。
電動自転車は、止まることなくそのまま横をスルー。
「頑張れよ」
言われなくても頑張りますから。
私は無言の背中で、それを剛に伝えると、従業員専用の駐輪場に向かって、
さらに力強くペダルをこいだ。
仕事場に向かうと、
五代さんから『芹沢さんが呼んでいるから企画室へ行くように』と言われる。
服装はすぐにでも仕事を開始出来るよう、しっかり作業服に着替え、
それから企画室に向かった。
【10-1】
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