29 香りが蘇る日 【29-1】

29 香りが蘇る日



「こういう機会に、熊井家から出て、部屋を探そうかなと」

「東京に……ですか?」

「いえ、七海です」

「七海?」

「はい。これからも耕太を支えて、『龍海旅館』をもっといい場所にしてきたいと、
そう思うようになりました」


椋さんが、ここに残る。


「菜生さんに出会ったので、余計にそう思うようになったのだと……」

「私……ですか」


椋さんが、私に見えるようにしっかりと頷いてくれる。


「『七海』が好きで、ずっと暮らし続けている人、一度は出たけれど戻って来た人、
そして、『七海』に引き寄せられて、その良さに気づいた人、色々ですが。
僕は、そういった人達と一緒に、この場所をもっともっと、盛り上げたいと……」


『七海』に引き寄せられた……


「同じ景色を追える人がいるのは、心強いから」


椋さんは、これからもずっと『七海』に。

私がいるからと、そう言ってくれた。

これからもここで、一緒に……


「本当に、『七海』に残りますか?」

「エ……どういう意味ですか?」


椋さんがウソをつくわけがないと思っているけれど、でも……


「ごめんなさい、言い方がおかしいですよね。でも、『BB』に働く実力があって、
それに……」

「残りますよ、僕はここに……」


椋さんは、『この街が大好きになりましたから』と笑ってくれる。

その笑顔を見て、やっと信じられると思う私。

これからも椋さんがここにいて、一緒に『七海』を……


「『七海』って魅力的な街だったのですね。子供の頃は観光客が多くて、
浮かれているようなところが、大嫌いだったのに」

「今は?」

「今は好きですよ。私も、引き寄せられた……一人ですから」


これからも旅館を、そして街を、盛り上げていくために。


「そういえば、鬼澤さん、新生活を始めるからアパート出ますよね。
それならそこでもいいけどな」

「場所、ご存じですか?」

「いや、知らないです」

「商店街を抜けて、高瀬病院の方に10分くらい歩いたところです。
海にも近いですけど、すぐそばにはコンビニがあるって」

「高瀬……あぁ、なんとなくわかった」


椋さんがこれからも『七海』にいてくれる。

それがわかっただけで、いつもの『ナウミタン』がより甘酸っぱく感じる。

来年はいい年だろう、そんな気持ちを抱きながら、フォークをクルクルと回した。





『謹賀新年』

年末デートから数日経っただけで、世の中は新しい年を迎えた。

『龍海旅館』は当然、年末年始も営業中。

フロントの横には、私が12月の28日、

他のスタッフやお客様と一緒に頑張ってついた餅で作った『鏡餅』が

きちんとお供えされている。


「はい、フロントです。えっと……」


チェックアウト数時間前、慌てたような電話は『潮騒』のお客様からだった。



「ん? お湯が出ない」

「はい。洗面のお湯が出ないと今、『潮騒』のお客様からでした。
昨日はそんな話はなかったですけど、とにかく一度見に行ってきます」

「あ、そうだな、もし故障とかなら、
そこに次のお客様を入れるわけにはいかなくなるし」

「ですよね」


インフルエンザから立ち直った木立さんは、『昨日の夜はどうだったのかな』と、

ナイトスタッフからの報告書を確認する。


「何が言われた報告はないな」

「行ってみます」

「うん」


私はフロントから出ると、すぐに『潮騒』の部屋に向かった。

到着するとまずは扉を叩く。中から声がして、年配の女性が出てくれた。


「すみません、朝から……」

「いえ、こんな日にお湯が出ないなんて、申し訳ありません」


私は『失礼します』と挨拶をして中に入り、洗面台の場所に向かう。

左の蛇口がお湯、右が水。

これは赤と青のシールが貼られているから、わからないことはないだろう。

とりあえずお湯の方をひねってみる。

出てくるのは最初は冷たかったが、少しずつ熱くなり……



あれ? 普通にお湯だけど。



「お客様……」


『お湯が出ましたよ』と言おうとした時、部屋の扉が開き、男性が一人戻ってきた。

部屋の中に、私がいると思わなかったのか、戻ってきた男性は驚いた顔をする。


「お帰りなさいませ。すみません、ちょっと確認に……」

「確認? 何かありましたか」

「あ……お父さん、お湯が出ないと思って」


女性はすぐに男性のそばに向かい、

どうしてこうなっているのか事情を話している。


「何をお前は、朝からコソコソと」

「いいえ、コソコソなんて……」

「お客様、大丈夫ですよ、操作方法がわからないとか、
そういうお問い合わせは、たくさんありますので」


結果、お湯は普通に出てくれた。

どういう使い方をしようとしたのかわからないけれど、

勘違いの可能性が高そうだ。何か間違ったと思い、色々触れてみようとすると、

さらに混乱することはあるはず。あらためて奥さんに確認してもらう。


「あぁ、本当だ、ごめんなさい」

「いえ……」

「俺が戻ってくるまで待っていればいいだろう。
みなさん忙しいのに、わざわざ来てもらう必要もなかったんだ」

「そうでしたね、すみません」

「いえ、大丈夫ですから」


奥さんになる年配の女性は、『すみません』と何度も私に頭を下げてくれた。


「全く……」


慌てずに冷静に対応しろという、旦那さんの言っていることもわかるけれど、

もう少し言い方がないだろうか。頭の上から落ちてくるような言葉の数に、

奥さんの様子が気になってしまう。


「本当に大丈夫ですから、気になさらないでください。
迷ったり悩まれたりするより、言っていただいた方がすぐに解決しますので」


頭を下げて、『潮騒』を出る。

扉を閉めた途端、ため息が落ちた。


【29-2】



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