「それなら、『チャリデカ』のこと、お母さんにも教えてあげてください」
「はい。帰ってきたら……。父と母、実は今日から旅行で」
「へぇ……どちらに」
「伊香保温泉へ。町内会長さんからチケットをいただいて。
最初、母は面倒だから嫌だと言ってましたが、父は『真珠婚』だからと、
珍しくそんな気をまわして」
「『真珠婚』……あぁ、30年」
さすが椋さん、そういうことがすぐにわかる。
記念旅行で『龍海旅館』に来るお客様も、確かにいるからね。
「実は、このドラマ、少し前に伊香保温泉でロケをしていて、
そこに行けるという楽しみもあって、今朝二人で」
「あぁ、そうですか」
そう、二人で出かけてしまいました。
つまり、私は一人です。
「それならお店は……」
「お店はお休みしました。一応責任者が留守ですし、
鬼ちゃんも七海さんの引っ越し準備を手伝うために、豊田に行くことが出来るので」
そう、鬼ちゃんも来ないのです。
つまり、私は一人です。
「あ、そうか、鬼澤さん新しいところに越しましたよね。
前に、ウォーキングで会った時に、そう言っていました」
「そうなんです。『プロペラ』の隣に……」
「はい、あの場所ならお店にも近くていいですね」
「はい」
はい。引っ越しましたよ、今日はそこにもいません。
つまり、私は一人です。
両親もいないし、鬼ちゃんもいません。
なので……
どうしよう、私の方から『食事にでも行きませんか』と誘ってみようか。
いや、でも……
「そうか、それなら今日にしなければよかったな」
椋さんはそういうと、『せっかく食事に行けるチャンスだったのに』と渋い顔をする。
それはつまり、今日はダメだということの裏返し。
「実は今日、谷村さんのところに行く予定があって」
「谷村さん……」
「はい。釣り船と民宿の谷村さん、ご存じないですか?」
「あ、はい、わかります」
駅から商店街に続く道、そこで洋平の『伊東商店』まで来ると、
『龍海旅館』の方に向かう道と、高瀬病院の前を通る新しくて大きい道がある。
さらに、本当の海沿いを走る、昔からの旧道があって、
『船宿谷村』はそこで釣り客をターゲットにして、昔から民宿を構えていた。
名前は地元のため当然知っているけれど、今まであまり縁もなくて。
「『おととや』が完成する前に、一度見に行くことに……」
椋さんは『すみません』ともう一度私に謝ってくれた。
その日の仕事を終えて、自転車置き場に向かう。
前に椋さんが購入したと教えてくれた自転車も、まだそこにあって。
『去年まで、谷村さんも今まで通りの営業をしてましたが、
釣り客相手に部屋数を全て埋めていくのは、スタッフの年齢などを考えても、
難しいと判断したようです。前に組合の集まりで、
何かアイデアはないかという話になったものですから……』
『七海』で宿泊業をしているのは、『龍海旅館』だけではない。
そういった人達が集まる会合なども、行われているのは知っていたが、
椋さんがまさか、他の宿主さんからも相談を受けていたとは知らなかった。
『オーベルジュと言うと、ちょっとおおげさですが、食事をメインにして、
週末だけ宿泊客を取るようなシステムに、この1年をかけて変えてきたところです。
宿を前に出さなくなった分、料理に力を入れられますからね。
海に近い場所で、美味しい魚を食べられるというのは、
客から見ても説得力があるでしょう』
宿としてのサービスはなるべくカットしているため、
従業員の負担は以前より減ったらしい。
『おととや』を選ぶお客様の目的は、釣りと料理。
『宿泊のくつろぎ』を目的とする人達とは、線が引かれる。
電動自転車の鍵を回し、スタンドを外す。
ハンドルを握り、しっかりとまたがってから、ペダルに足を乗せる。
少し踏み込むと、自転車はスムーズに走り始めた。
そう、椋さんが経営の相談を受けた谷村さんの『おととや』は、
すでにホームページも作られていたので、仕事の区切りがついた昼休み、
携帯で確認してみた。
話の通り、今まで宿泊の部屋だった場所をリフォームし、
小さな和室を3つ作ったという。
ちょっとした個室の扱いで、確かにおちついた食事が出来そうな雰囲気もあった。
『『龍海旅館』で取り入れられることは、当然取り入れていきたいですけど、
出来ないことは周りの同業者に、お願いしてやってもらうのも、
『七海』全体を盛り上げるためには、必要なことだと思いまして……』
そう、『龍海旅館』がよくなって欲しいと思い、仕事をするけれど、
周りも一緒によくなることで、『七海』の価値が戻ってくる。
店も宿も施設も交通も、協力して街を作るために動く。
ブレーキを両手で握ると、自転車は坂の途中で止まった。
何気なく振り返ると、見えるのは『龍海旅館』。
『七海』を盛り上げていく……か。
椋さんがいてくれたら、『龍海旅館』だけでなく、
互いにアイデアを出し合って、別のお店も盛り上がって、そこからどんどん……
どんどん……
離れていきそうな気がしてしまう。
少しセンチメンタルな気分になりかけた時、携帯電話が鳴り出した。
携帯をバッグから取り出し、相手を見てみると理子なのですぐに取る。
「もしもし、何?」
『あ、菜生。もう仕事終わった?』
「うん、終わったけど……」
『どこかに行く予定、ある?』
理子の問いかけに、私は『家に戻るよ』と返事をする。
『それなら、これから坪倉家に行ってもいい?』
理子は、うちの親が今日旅行に行くことを知っていて、
一緒に夕食を食べようよと提案してくれた。
考えても仕方がないことを考え、沈み込みそうになった気持ちに、
小さな光りがともる。
「うん……おいでよ」
『わかった。それならこれから行くね』
『東京』でもひとり暮らしをしていたし、子供ではないのだから、
一人でも別に問題はないのだが……
でも、『七海』にいるからだろうか。
誰かの声がしない家に戻るのは、やはりどこかもの足りない。
家に戻ると、小さなリュックを背負った理子が、自転車に乗ってやってきた。
【30-3】
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