26 思い出の積み木

26 思い出の積み木


菊川先生が腕をつかんだことで、お母さんはかろうじて席に戻ったが、

私の顔を見ようとはしなかった。

もっと取り乱されるかと思ったが、見た目はそれなりに冷静な態度で、

飛び込んだ私の方が、自分の居場所をどう確保したらいいのか、わからなくなる。


「幸が亡くなってから、みんなあえて話題に出すことを避けてきた。
あなたが悲しいのはわかっていたし、語って欲しくない……。そんな態度だったから。
でも真相を知ってみれば、亡くなったのは、園田先生の責任でも、節子の責任でもないわ。
だとしたら、思い出して語ってあげることはいくらだって出来るはず」


目の前に置かれたコーヒーから、まっすぐに湯気が上がる。

私は両手でカップを包むようにして、その温かさだけを感じ取った。


「思い出してあげようよ、節子。あの子がちゃんと生きていたことを。
そのためには、幸にウソをついちゃダメ。幸を忘れさせるんじゃなくて、
思い出してもらうためにも、隠し事をしたら……かわいそうよ。
あなたを思い心配していた、普通の娘だったじゃない」


幸さんが、確かにこの世に生きていたことを思い出すために、

事実を隠さずにいた方がいいのだと、菊川先生は蓮のお母さんに訴えかけてくれた。

お母さんは、その間も黙ったまま、視線は床を捕らえ動かない。

まるで感情まで落としてしまったかのような表情に、私は胸が締め付けられそうになった。


菊川先生の力を借りて、また一歩踏み出たはずの日は、

蓮のお母さんが見せてくれた寂しげな横顔だけが頭に残る日だった。

その日、蓮はお母さんに付き添うように家へ戻り、私は一人部屋へ帰った。





玄関を開け、左手を伸ばしスイッチを押すと、何度かの点滅の後照明がつく。

窓に映る自分の姿を確認しながら、すこし厚めのカーテンを引いた。


この部屋へ引っ越したその日、私は初めて蓮を知った。

いや、それまでの日々の中で、もちん名前は知っていたけれど、

学生という枠の中にいる、たった一人にすぎなかった。

あの日、運ばれてきたピアノで、唐突に弾かれた『革命』に大きく気持ちを揺さぶられ、

学生を初めて一人の男性として意識した。


まっすぐに向かう目を知れば知るほど、私の気持ちは蓮へと向かった。

そして、この部屋に蓮がいることが当たり前になり、

今、別れてきたことをわかっているくせに、ここで一人になることが寂しく感じる。


父の思い出に浸るために大事にしていたピアノは、いつの間にか、

蓮の音色を聴くために、ここにあるようになった。

今、部屋のどこを見渡しても、彼を感じない場所はないくらいで、

恋をしたことは初めてではないはずなのに、

彼を失うことは、自分自身がなくなるくらいの想いになる。


テーブルの上に置いたバッグから携帯を取りだし、広橋蓮の番号を探す。

私よりも先に家へ向かった蓮は、今頃何をしているのだろう。

あの後のお母さんの様子も気になるのだからと、電話をかける理由を探し通話ボタンを押す。


「もしもし……」


何度目かの呼び出しで電話に出た蓮に、私はお母さんの様子を問いかけた。

自分は冷静にここへ戻ってきたと言ってみせるものの、

蓮がお母さんを思いやるようなことを言う度に寂しさが増す気がして、膝を抱え込む。


「タクシーの中では何も言ってなかったよ。少し時間がかかるかもしれないけど、
もう、隠す必要はない。自分の気持ちを知ってもらえただけでも、よかった気がする」


学生として過ごした後、菊川先生のところで緊張する時間を持った蓮が、

疲れていることも十分わかっているつもりだった。

知りたかったお母さんの様子もわかったのだから、挨拶して電話を切ればいいことも、

頭の中では理解しているつもりだった。

でも、口から飛び出していった私の本音は、全く違うものになる。


「蓮……会いたい……」


とんでもないわがままを言ってしまったのかもしれない。

こんな時に、私は何を言っているんだろう。蓮からは何も返事がなく何秒かが過ぎる。

膝を抱える手に力が入り、戻せない言葉を後悔した。


「あと10秒、敦子の電話が遅かったら、僕がするつもりだった……。
そっちへ行ってもいい? って」

「蓮……」

「敦子からお願いされるのは、いい気分だ」


そう言うと蓮の携帯はプツリと切れた。

ちょっと得意げな、そう……いたずらっ子のような表情をされたのかと思うと、

どこか悔しい部分もあったが、『会いたい』という気持ちを素直に出せたことが嬉しくて、

冷たくなりそうな心に、優しい灯がともる。


暖房のスイッチを入れ部屋を暖め、私は待ちきれずにマンションの前へ出た。

タクシーで来るのか、駅から来るのかわからず、視線を動かしながら、その時を待つ。


充分着込んで出てきたつもりだったが、冬の夜の風は容赦なく頬を刺し、耳が痛くなる。

車のライトが眩しく光り、何度か目を細めてやり過ごしていると、

遠くの方に人影が見え、それがだんだんと近くなった。

間違いなく蓮だとわかってから手を振ると、ポケットに入れてあった手をこちらに向け、

照れくさそうに振りかえす。


「寒いんだから部屋で待っていたらよかったのに」

「うん……」


つないだ蓮の手は温かく、大きかった。

エレベーターに向かい二人だけで乗り込んだ後、自然に唇が触れる。

降りた後も私の手を引き部屋へ向かう蓮に、ただ着いていった。





「はい、コーヒー」

「ありがとう」


蓮の横に座り、その体温と呼吸の音を感じ取った。

蓮ののどをコーヒーが通り過ぎる音がして、ふぅ……とため息がもれる。


「ごめんね、こんなふうに呼び出して。でも、どうしても一人でいたくなくて」

「どうして謝る? そんな必要ないのに……」


私は同じようにカップを持って、その蓮の言葉に何度も頷いた。

同じ思いを持っていたと電話で聞いたはずなのに、私は何かをするたびにすぐ後悔する。


「今までと同じなのにね。それなのに、気持ちがどこか違うの。
申し訳ないと思いつつも、そばにいて欲しいって……そう思って」

「うん……」

「お母さんにあんなに哀しい顔をされたけれど、絶対に譲れませんって、
気持ちだけで叫んでいた。だから顔をあわせたくなくて、下を向いて……」

「うん……」


正面にかけてある時計の針が、その時ぴったりと重なった。

カチンという音が静かな部屋に響き、時が動く。


「どうして蓮なんだろう……」


好きな人に会いたいという気持ちは、過去の恋でも当たり前のように持っていた。

でも、ここまで強く動かされたことはない。


「答えを教えようか」


そう言うと蓮は、私が持っていたカップに向かって、軽く息を吹きかけた。

何も変わらない少しミルクが入ったコーヒーが、そこにある。


「こうして毎日、毎日、敦子に媚薬を飲ませたんだよ、僕に夢中になるように……」

「エ?」


あまりに子供じみた答えに、聞いた私も、話した蓮も、おかしくて笑い出した。

もっと気の利いた答えがあっただろうに、しんみりしていた空気が、一気に温まる。


「敦子……」

「何?」

「あの映画館にまた行かないか? この間、大学の連中と近くの店で飲んで思ったんだ。
ここのところ色々と考えることが多くて、そんな時間から遠ざかっていた気がするからさ。
やれることはやったんだ、後は時をかけながら、理解してもらうしかない」


蓮と気持ちを寄せ合うきっかけを作ってくれた映画館は、今もまだ水曜日の最終回に、

古い映画の上映を続けていたが、それも後、1、2年ではないかと地元では噂になっている。


「そうよね……。じゃぁ、今度の水曜日、待ち合わせして行こう」

「あぁ……。何を上映しているのかわからないけどね……」

「チケット、ある?」

「……あるわけない。あれは敦子の気持ちを向けるための活動だったんだから」


蓮はそう言った後、楽しそうに笑い、空のカップを私に手渡した。





約束の水曜日。


仕事を終え、私は電車に乗ると映画館へ向かった。

蓮はこの日、初めて『ふたば』の担当者と午前中、会うことになっていて、

一度家へ戻ってからこっちへ来ると、昼前にメールをくれた。


雪岡先生をタクシーに乗せたあの場所を通り、腕をつかまれながら歩いた道をまっすぐに進む。

学生らしき集団と何組かすれ違ったが、あの頃と違い、下を向く必要もなければ、

視線を逸らす必要もない。


外で待つのは寒いので、隣のコーヒーショップで『カフェオレ』を買い椅子に座ると、

それと同時に携帯が揺れ始めた。電話は蓮からで、少し遅れるのだろうかと、

私は軽い気持ちで受話器を開ける。


「もしもし……どうしたの?」

「敦子……ごめん、今日は行けなくなった」

「エ……」


蓮の息づかいが荒く、焦っている気がして、事故に巻き込まれてしまったのか、

途中で具合でも悪くなったのかと、私は問いかけた。


「母さんが……倒れて、救急車で運ばれた。今、病院なんだ」


あの日、私が蓮を奪ったからだろうか。

だから神様は、ここへ来ることを許さなかったのだろうか。


受話器越しから聞こえる、蓮の申し訳なさそうな言い方に、私はため息すら出なかった。





27 心の氷 へ……




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コメント

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浮上するも・・・

こんにちは!!

捨てられた仔猫のように不安になって
電話する敦子さんが切ないけどかわいかった

蓮君が来てくれて、デートの約束もして
気持ちが浮上して嬉しそうにしてたけど
このままスンナリいくのか?と思ってたら・・・

捨てられた仔猫気分に戻ってしまった(多分?)敦子さん
 
蓮君母の容態も心配だけど、敦子さんも心配です

この事が却って事態を好転させる?
それは楽観的すぎる?考えですよね
そんなに簡単にいくわけないか・・・

     では、また・・・e-463

捨てられた仔猫……いい!

mamanさん、こんばんは!

>捨てられた仔猫のように不安になって
 電話する敦子さんが切ないけどかわいかった

あはは……この表現すごくいいです!
そうそう、確かに、そんな気持ちだったかも。
ちょっと焼きもち焼いてるんだよね。

>この事が却って事態を好転させる?
 それは楽観的すぎる?考えですよね
 そんなに簡単にいくわけないか・・・

いえいえ、この出来事から動きがありますよ。
右から左にはなりませんけど、
徐々に、徐々に(笑)

そこから始まること

yokanさん、こんばんは!

>お母さんの態度がどうあれ、
 二人が前向きになったときだけに、
 お母さんが倒れたことはキツイよね

間が悪いと言えば悪いし、なぜそうなったのかが
わかれば……なんだけど、今は言えないのです。

でもね、このことから、敦子はあることに気付きます。
それが何なのかは、また次回へ!